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2020年 東京オリンピック開催決定に思うこと~「までな心」で良しとする~
1964年(昭和39年)の東京オリンピック時、私は4歳だった。
横浜に住んでいたが、それでも東京からの熱気が子供ながら十分に伝わってきた。
いや、日本中が戦後の惨めな敗戦からこのオリンピックを契機に
一気に変わってゆくのを、目の当たりにする喜びに沸き立っていた。
高速がバンバン走り、新幹線が開業し、連日放送されるオリンピック中継を
心躍らせ、家族皆で見入ったものだった。
当時は白黒のテレビで赤々灯る聖火台というわけにいかなかったが、
雲ひとつない晴天の空とともに心の中にくっきりと思い描くことが出来た。
中でも「東洋の魔女」と言われた当時のソビエト(現ロシア)対日本の女子バレーは
手に汗握る好試合でハラハラ、ドキドキしながら食い入った。
見事金メダルに決まった瞬間は、4歳の私でも号泣したほどだった。
翌日さっそく母がバレーボールならぬ風船を買ってくれて
8畳の和室に布団を敷き詰め、幼かった妹と3人で「回転レシーブ」などと大騒ぎしながら
楽しんだことを昨日のことのように思い出す。
そんな心躍る体験を、日本の子供たちにも味わってもらいたいと心から願う。
福島の汚染水問題がここに来てまた危ぶまれている。
正直、オリンピックを辞退してさらなる救済を最優先すべきと思っていたが
こうして決定となるとやはり素直に嬉しい。
原発を減らし脱原発まではいかないものの、
クリーンエネルギーに徐々に方向を転換する発表も行われ
オリンピック開催決定と共に久々に明るい話題をいただいた。
是が非でも、国内外の「知の結集」でこの難局に立ち向かってほしい。
7年後に全面解決は難しいだろうが、
牛歩の歩みでもいいから前進していただければ、
こんな喜ばしいことはない。
「わずかな好転でも、それはやがて大きな希望の光となる」
そして一日でも早く福島の人々が安息の地を得られるよう心から祈る。
私のいとこは福島で農業を営んでいる。
原発が爆発した時は「片腕がもがれたみていだ」と呆けたようにつぶやいた。
あれから2年と半年になろうとしている。
先日電話で「やっと元気になったぁ」と明るい声で話してくれた。
田植えが出来た。ただそれだけで「んだ。こっだら幸せなことねぇ」と心から嬉しそうだった。
これからTPP問題も本格的に始動してくるだろうが、結果はどうなろうとも
日本は「品質」と言う「強い武器」をもっている。胸を張ろうではないか。
いとこの口ぐせは(ここも福島弁で)
「おらんとこの 米さは、薬なんかひとっつも使ってね。
うーんと「まで」に作ってんだぞい。だからはぁ誰にもさ 負げねえ」
福島ではこのような細やかさや丁寧な心配りを「まで」と言います。
米だけではなく、オリンピックでもこの日本の品質、特質とでも言おうか
細やかな心配り、おもてなしの心で世界中の人々を魅了しようではないか
さて7年後、あなたはどんな日本人のおもてなしの心を発揮できるだろうか?
あいかわらず人見知りで、もじもじ。
外国人に道を聞かれても逃げる?
それとも果敢に攻めていく?
それこそ、話し方教室でお勉強することをお奨めいたします。
なに?英語ではない?いいの。いいの。日本語で。要は心意気の問題。
笑顔で接すれば、中学レベルの英語でなんとかなるものなの。
私はこのレベルで、数々の難局?
(外国人に何回も道を聞かれた)を乗り切って参りました。
うーん私?そうね。どうしようかな?
その時60のおばちゃんに何が出来るか?先日引退した宮崎監督ではないけれど
秘策?はあるんだけど、、、。出来なかったら恥ずかしいので
今は秘密にしておきます。でも絶対オリンピックに何かしらの形で関わりたいです。
だって生きているうちで、これが最後のチャンス。
前回の東京どころかこれまでさんざオリンピック楽しませてもらって
いくら年取ったって、今回もただテレビ観戦だけじゃねぇ。
なんか一つぐらい、人様の役に立つことしなきゃそれこそ罰あたりそうじゃない。
宮崎監督みたいに立派じゃないけど少なくとも後悔だけはしたくないもの。
だってそれが日本人ってもんじゃない。
それこそ「までな心の精神」で外国の人が「ナイスオリンピックだった。
日本人のおもてなしはワンダフル」と言って笑顔で、帰っていただけるよう頑張りたい。
そしてこれだけは忘れずに言いたい。
「震災のときは日本を助けてくれてありがとう」
あっ、でもそれまで長生きしなくちゃ。
元気で生きてゆく目標をいただきました。
おめでとう。そしてありがとう。東京オリンピック開催。
最後に昨日散歩がてら見つけた近所のお寺の門に掲げられた一文を
記して今日はお開きにしたいと存じます。
本日も読んでいただきありがとうございました。
「天は戒(かい)を与え、善を良しとする者を守る」
あの日から2年5ヶ月~欲なきところに花が咲く~
この酷暑の中で今日8月11日を
ボランティアで過ごす若者達がいるという。
場所は主人が泥かきに行った宮城県石巻。
縁もゆかりもないあの街に
居ても立ってもいられなくて出かけていったのは
震災直後のことだった。
あれから2年5ヶ月。
申し訳ないが、日々の忙しさにかまけて
ニュースを見るときぐらいしか被災地を思うことがなくなった。
直後は、震災以外考えられず母の介護や主人の食事の支度など
やったはずなのに記憶が10日ほどスコーンと抜け落ちていて
「私あの時夕飯ちゃんと作った?」と後に主人に確かめる始末。
主人は「作ってくれたよ」と言うので間違いなく作ったんだろうけど
自分的には???なのです。
トイレで涙し、風呂で涙し、台所に立っても涙し
「目がウサギだよ」と言うほど、とにもかくにも涙にくれていた。
何も出来ない自分が歯がゆくて、時に腹立たしくて
ああそれなのに、この体たらく。ごめんなさい
泣くだけなら誰にでもできるよね。
太陽が沸騰しそう?なこの日に
「亡骸の一片でも探し当て、一日でも早くご遺族の元に返してあげたい」
じりじり焼くような日差しの中
中腰になって、打ち寄せる波間で、細かい砂の中から
生きた痕跡をわずかでも見つけ出してあげたい
成仏させてあげたいという気持ちがヒシヒシと伝わってくる。
忘れかけていた涙がまた私の中で溢れ出す。
頭が下がる思いと同時に
清清しい若者の言葉に、心が洗われるような気がする。
救われるような気がする。
仏の世に行き、お盆で帰ってくる彼らに代わって
「ありがとう」と礼を述べたい。
「今もボランティアをしてくれる若者達よ。ありがとう。
君たちの事はずっと忘れないよ。必ずや君らに幸が訪れることを
おばさんは心から願っているよ。祈っているよ」
人の為に汗水流すことが、自分の才を活かし
さらに伸ばし、広がることを若い彼らは知る由もない。
欲なきところに花が咲くことを彼らは知らない
それでいい。それがいい。
いつか開花したときに彼らは気付く。
己を捨てた行為こそ美しかったと
あれこそ華だったと。
素敵なお話を届けてくれて
ありがとう。
今日も読んでくださって
ありがとう。
夏の縁側 ~磨かれた読書感想会~
「陽子ちゃんこの本読んだ?」 「ううん、まだ読んでない」 「すっごくおもしろいから読んでみ。貨してあげる」 「ありがとう」 子供のころ、幼馴染の近所のNちゃんが いつも我が家に遊びに来るたびに持ってきたものが 自分が読んでおもしろかった本だった。
おままごとや、なわとびなど女の子らしい遊びも彼女とはたくさんしたが とりわけ記憶に残るのが彼女と静かに並んで本を広げた一時だ。
少し曇った涼しい夏の午後。縁側の向こうには田んぼが広がり、 青い苗の上を風が通り過ぎてゆく。 蝉の鳴き声をききながら、ゴムサンダルの足をぶらんと下げて 二人とも黙ったまま本に目を落とす。
傍らに置かれたカルピスの氷が解けるのも忘れて、 小豆のアイスキャンディなんか舐めながら、 ページをめくる一時。 今思えばあれは至福のときだった。
「あっ、もうこんな時間」「わっ夕立来そう」 読み終えないときは、この次までに読んでおくのが いつのまにか暗黙の約束になっていた。
次の朝、ラジオ体操で会うと開口一番、 「昨日の本どうだった?」 「うん、おもしろかった」 そして私たちは、読んだ本の感想をお互いに話し合うのが これまた通例になっていた。
本を読んでいる時間も幸せだったが、 読んだ本の感動をダイレクトに 「ねえねえ、聞いて」だけで 聞いてくれた人がいたあの時間は、本当に幸せだった。
楽しかった。このうえなく楽しかった。 自分の意見を思いっきり話せて、 それを存分に受け入れてくれる人がいて、 互い共感しあったり、共鳴しあったり、 時には、自分とは異なった彼女の意見に 耳を傾けて、感心したり、考えたり、 あんな時間、二度とないような気がする。
あの空間と、あの子供時代 貴重な体験を彼女と分かち合えたことを 感謝すると同時に、限りない喜びに感じる。
Nちゃんとは今でも「ちょっと聞いてよ」と言って話せる間柄だ。 50年も続いているのは、ひとえに彼女の人柄によるものだと 私は大変有難く、電話のたびに彼女には「ありがとう」と 礼を述べている。 彼女もまたしかり。 彼女の賢さにいつも助けてもらった。 だから50年以上も喧嘩することもなく 友達という関係が続いているのだと思う。
山口県で村人を5人も殺すという凄惨極まりない 事件が起きたが、どうやら容疑者の男が 孤独感を深めた後の犯行ということらしい。
本来なら、鍵もかけない互いが信頼しきっているはずの 緑深い山里で男は自宅に防犯カメラを取り付けた。 どうやら男は自分の心の鍵を掛け違えたようだ。
男が捕まった獣道の脇を澄み切った川が流れていた。 キラキラ光って悲しすぎた。美しいものを美しいと思えなくなると 人はあんな無残な行いを起すのかもしれない。
広島の16歳の少女しかり。 ラインという画面上の言葉だけが虚しく踊っている。 画面上の関係は、そのまま彼女たちの関係性を物語っている。 言葉は本来、もっと美しく、心から発せられるものであるものと 私は思う。
互いが互いを思いあう。 言葉とは、会話とは本来もっと純粋で単純なのかも。 だから難しい。だから素敵なのかも。 蝉時雨を聞きながら、 過ぎた夏をひとしきり懐かしく思いながら そんなこと考えた夏の午後。 今日も読んでいただき、ありがとう。
暑さ厳しき折、くれぐれもお体をお大事に それでは ごきげんよう。 |
コミニュケーション力は命をも救う?&DJポリスに拍手と感謝
素晴らしき証~人質事件の犠牲者に捧ぐ~
亡くなった父の好きな歌の一つに「カスバの女」という歌があった。
歌のさびの部分に「ここは地の果てアルジェリア」という歌詞がある。
幼いころ父が鼻歌交じりで歌うこの歌に子供ながら悲哀を感じ、
又、見知らぬ遠い砂漠の地にどこか憧れを感じながら聴き入ったものだった。
今回の人質事件でこの歌がまったく別な意味を持って
私の心の中に突き刺さってくる。
昨年、ラジオにリクエストして取り上げてもらったが
今なら涙なしではとても聴くことができない。
一昨年の震災時も、今まで聴いていた歌がまったく別の歌になってしまったように。
「故郷」、「故郷の廃家」、「青葉城恋歌」、「糸」、などは
とても最後まで歌いきることができない。
「港町ブルース」の「宮古、釜石、気仙沼」はそれまでは本当に
ただの地名でしかなかったのに、ただの港町でしかなかったのに
今こうして文字を打っているだけで涙が溢れてくる。
それと同じように「カスバの女」は私の中で
残念だが悲しいかな「別の歌」になってしまった。
「ここは地の果てアルジェリア」
今後このフレーズをどこかで耳にするたびにあの赤土の上に建てられた
巨大なプラントとともに、遠い異郷の地で志半ば、
無念にも命を散らされた方々を思うことになるだろう。
高い技術力、豊富な経験、勤勉な向上心、企業人としての誇り
それらすべてをもって、貴重であり、尊きものであり
資源の無い日本国故、危険を冒し、リスクを覚悟で、
私たちの豊かな暮らしのために、その身を灼熱の砂漠に捧げてくれた。
それこそ熱き情熱と高い志を持って。
まことに持って痛恨の極みであり、心より哀悼の意を表したい。
新聞で読んだが、遠隔地で単身赴任する駐在員の一番の困難は
言葉の壁でもなく、価値観の違いでもなく、危険でもなく
「孤独」だそうだ。
或る者は年老いた親を残し、
また或る者は妻や幼き子供と離れ
砂漠の月を眺めながら、1万2000キロ離れた故国に思いをはせ、
満点の星を見つめながら、己が決意をさらに強固に固めたのであろう。
その孤独に耐え、忍び、技術の乏しい国に
培ってきた能力と力のすべてを惜しげもなく
晒し、伝え、それを誇りとした彼らたち。
伝えたいものはそれこそ山のようにあり
正に伝えたものは、知識や、技術力だけではなかったはずだ。
礼儀正しさや、規律正しい勤勉さや、和をもって尊しとする
日本の価値観や、日本人の魂までもきっと伝えたに違いない。
助かった方々のお話の一つとして、あちらの国の人が
ターバンを顔に巻きつけ、体を匿って
逃がしてくれたという話を聞いた。
普段からきっと仲良く、助け合って仕事をしていたに違いない。
真面目に、思いやりをもって相手に接してきたに違いない。
無残で残虐な知らせばかりが、続く中でほっと心が温まる。
いかに普段のコミニュケーションが大切なのか
いかに相手を、人を温かく思う気持ちを常日頃から
忘れずに持つことが大事なのか痛切に感じる。
今朝のニュースでは献花台に花が絶えないという。
白い花束は彼らに思いを馳せるすべての人々の悲しみと
「新たなる誓い」の表れでもあると思う。
「あなた方の気持を、スピリットを大切に受け継ぎます」
今回の人質事件で亡くなった方々は重い課題と同時に
改めて大切なことをも教えてくださった。残して下さった。
それこそ生きた証。素晴らしき証。
ありがとうございます。
あなた方のことは決して忘れません。
長きに渡り、本当に御苦労様でございました。
どうぞ安らかにお眠りください。
合掌。
美しき統率
梅ちゃん先生が終わった。戦後の焼け野原から立ち上がり、
医師として歩んでゆこうとする女性の物語だった。
東北の被災地の方には大変申し訳ない言い方だが、あの焦土と化した
戦後の情景に、津波で壊滅状態になった町が重なり「あーあここから
日本が立ち上がったのだ」とひときわ感慨深い思いになり
「今、日本はまさに二度目の復興の中にあるんだなぁ」と思いを馳せながら拝見させていただいた。
思えば原発が爆発したニュースの映像では、広島、長崎の原爆の映像と重なり悪夢を見ているようだ
った。
先の大戦で、衛生兵として過ごした私の父は
戦争に関しては多くを語らず平成15年に80歳でこの世を去った。
生前、話してくれたことの一つに
「日本人なら死ぬまでに一度は被爆地へ行け」だった。
父には申し訳ないがまだその約束は果たせずにいる。
(お父さんごめんね。いつか必ず行くからね)
福島第一原発が爆発した時に、父が生きていたら何と言っただろうと思った。
そして今、隣国と領土の問題で非常に厳しい問題に直面している我が国。
一発触発にもなりかねないこの状況下に、あの厳しい時代を生き抜いた父が
もし生きていたら何と言っただろうか?
私が幼いころ雨が降ると、父はこんなことをよく言ったものだった。
「空から降ってくるものが雨だけなんて幸せだ。お前はいい時代に生まれてよかったな」
雨あられのように容赦なく降ってくる焼夷弾から逃げ惑った人間からすれば
横なぐりの雨でさえ幸せに感じたのかもしれない。
「雨露しのげるだけでもありがたいことなんだぞ」そんなこともよく言っていた。
梅ちゃん先生の場面でバラックの家やトタン屋根の下で
家族が肩を寄せ合って生きる姿に貧しくても、たくましく生きる日本人の姿を垣間見、
戦後復興に燃える町工場の人々の姿の中に
誇り高く生きることを旨としていた
日本人の「真の心」を感じ取った方も多いのではないだろうか
あの頃も、そして今回の震災でも生き残った人々はお互い肩を抱き寄せ
生きている重みを、幸せをかみしめ、
亡き人々に思いをはせながら
隣人を思いやる心を忘れず
他者の幸せを我が喜びとし
前向きに生きる術を常として
国難とも言える日々を過ごしていらっしゃる。
そんな人々に私は心から拍手を送りたい。
それは決して鼻高々自慢するでなく
声高に叫ぶでもなく、まして暴力的に荒げることなど己の恥じであり
それこそ梅ちゃん先生ではないが
梅の花の匂うがごとくほのかで密やかで
甘やかに匂うがごとく
強く優しく気高きものではないだろうか?
それこそがこの国の人々の誇るべき姿なのではないだろうか?
先に行われたあのデモに私たち日本人は何を感じ取っただろうか?
同じデモでも主人が参加した原発再稼働反対デモは
整然と行われ、ましてや略奪や暴力などとは無縁のデモだった。
それこそ素敵だと感じる。
デモと言うよりもあまりにも粛々と行われ、
今思えば式典の様にさえ感じる。
それは誰かに支持されたものではなく、ましてや強制された訳でもなく
己の心の叫びに忠実に従い、被災者を慮り
大切な何かに突き動かされ人々はかの地に集まった。
命を生みだす母親たちが次の世代のことまで考え
命を懸けて守らなければならぬ我が子の手を引いて参加する。
交通費をかけてはるばる福島から
いや、日本全国からいてもたってもいられず
さまざまな業種の人々が老いも若きも
個々の統率の基に参加する
それこそが「自由な国」のあるべき姿だと思う。
「なんでもあり」だから自由なのではない。
「なんでもあり」が自由なのではない。
三度目の復興などもうありえない。
「想定外でした」などもう許されない。
声高らかに自由を叫ぼう。守るべきものが何かをもう一度問いかけよう。
それが私たち生きている者たちに課せられた使命だと感じる。
先人達が命を懸けて勝ち取った本当の自由の意味を今一度考えよう。
国内外で起きている様々な現実を受けとめ、知恵を出し合うことこそが
明日に繋がると私は信じたい。
「戦争では負けたけどやっぱり勝ち取った気がするな」
梅ちゃん先生の最終回を見てそんなことを感じた私です。
ずっとウソだった パート2 福島バージョン
ずっとウソだった パート2 福島バージョン
こんにちは その後いかがおすごしですか?こちら横浜もようやく春めいてまいりました。この冬は本当に寒さが厳しく52歳のおばさんにとってはいやーきつかったぁ。介護の疲れとも相まって腰は痛くなるは(18日なんか一日動けなかったです)神経痛には悩まされるは、いやはや寄る年波には勝てずでした。
それでも腰痛の翌日に「骨密度」を近所の病院で測定してもらったら なんと骨だけは?若いとのこと「キャー嬉しい。一足先に桜が咲いたみたい」と叫んだら先生から 「飛び跳ねて帰り道で転ばないように」と釘を刺されました。 ほんとせめて心にだけは春を呼び込みたい。そう願わざるえないあれからの一年です。 3月11日で一区切りつけたいなんていう私の考えは甘かった。 あの日以降またまた私の頭をドカン、ドカンさせるニュースが次から次へと出てくる、出てくる。 なんだ。あの電力会社は。あれだから「頭狂電力」なんて言われるんじゃい え?値上げします。払わなければ電気止めます。いいじゃない。止めて結構。 もういい加減あんたとは決別したいです。「電力の絆」は他で結びます。 再稼動?どこかの会長さんの頭は経済(お金)のことだけらしい。 日本国民の子々孫々が絶えることなんかはこの人の頭の中にはないんだな。きっと。 ストレステスト?福島の人のほうがよっぽどストレスたまってるわい。 ガマン比べのテストなんかい?と疑いたくなりますわ。 まったくテストが好きなお国ですこと。 60年以上前の大本営からずっと変わらないんですもの これから40年間もテストを受け続けるなんて、 お勉強嫌いの私には耐えられませんことよ。(うーん?そのテストとはチト違うと思うが) こんなテストをさせて出てきた答え?をなんだか煙に巻いたような(人をオチョクッタ様な) 言い回しで会見に臨んだのは「疲れたから今期で引退します」と(なんじゃそりゃ、あんたは第二の清水かい) 爆発時、頭を「あーっ」と抱えた委員長の「でたらめ」さん。 この国には「最後まで責任を取ります」というやつがいないんかい。 2号機に毎時8,8トンも注水して水の量はたった60センチ?残りは何処? そして、そして未だにその2号機の線量は72シーベルトもあるにもかかわらず なんと6分で死に至る線量だっていうにもかかわらず、国のトップが会見に臨むでもなく 民法のニュースで取り上げることもなく、48人の女の子の集団から一人卒業だの、 覚せい剤のうさぎのピーちゃんが芸能界復帰か?なんて騒いでいるこの国の有様に 私の頭は?マークが飛び交い、こりゃダメだと相成ってしまうのです。 これじゃあ神経痛なんか治るはずないよね(うーん?それとこれとは違うと思うが) あーあ。これじゃあほんとの春はいつくるんじゃい。あたしゃ「ほんもの」さんと絆を結びたいわい。 |
2号機を測れば72シーベルト
長官も大臣も言ってたよ安全です
俺たちを騙して2ヵ月後メルトダウン
炉心は溶け出し 汚染水垂れ流し
ずっとウソだったんだぜ やっぱバレてしまったな
ほんとウソだったんだぜ 原子力は安全です
ずっとウソだったんだぜ SPEEDひた隠し
ほんとウソだったんだぜ 気付いてたろうこの事態
流れ出る 放射能はもう止められない
6分で被爆すれば原発を止めるの?この国の政府
この町を離れて故郷は汚染区域
教えてよ帰れる日もうどこも逃げ場はない
ずっとウソだったんだぜ 冷温停止宣言 除染すれば帰れます
もう夢ばかり見てられない
ほんとウソだったんだぜ 国滅ぼして再稼動
ほんとウソだったんだぜ
3月11日に寄せて ~悲しみは悲しみのまま~
たくさんの涙があった
たくさんの痛みがあった
たくさんの絆が生まれ
たくさんのほほ笑み交わされた
それでもあなたの悲しみに私は近づけない
それでもあなたの切なさに私は踏み込めない
悔しさに耳を傾け 手を取って共に泣いたら
貴方の心 ほんの少し和らいでくれるかしら?
大粒の涙がこぼれ
無数の叫びが溢れ
尊い命を見送り
見知らぬ助けに施され
それでもあなたの悲しみはこの空では癒せず
それでもあなたの切なさは光でも和めない
時の流れを受け止めて 一人静かに向き合えば
貴方の心 ほんの少し開いてゆくでしょうか?
頬伝う涙を拭い
やるせない咽びに泣いた
この世の無常を知って
はかない重さを噛みしめても
それでもあなたの悲しみは何一つ報われず
それでもあなたの切なさはあなたしか解らない
悲しみは悲しみのまま 胸の奥深く抱いて
貴方の心 ほんの少し思い語れるといいね
悲しみは悲しみのまま 胸の奥深く抱いて
貴方の心 ほんの少し前を向けたならいいね
前を向けたならいいね
昨日に引き続きまだまだというか
とうてい癒せない
被災地のみなさんのお心に
深い悲しみを覚えました。
あまりにやるせなくて
本日それこそ布団かぶって寝込んでしまいました。
夢なのか幻なのかあふれ出てきた歌を
急きょというか慌てて書きとめました
長い間眠っていた私の中の悲しみなのでしょか?
被災者でもない私がおこがましいのですが
被災者の皆さまに比べたら私の悲しみなど
お笑い草と思いますが、それでも読んでいただき
ありがとうございます。
どうぞお体だけは大切になさってくださいませ。
3月11日
ほんとの事言えば酒かっくらってヨ
布団かぶって泣きてえヨ
ほんとの事言えばあいつの顔浮かべ
一人静かに手を合わせてえヨ
「悔しいよ」死んだお前が 一番悔しいだろう
「悔しいよ」生き残った俺が 何も出来なくてヨ
ほんとの事言えば首根っこ掴んで
「この馬鹿野郎」叫びたい
ほんとの事言えば誰かのせいにして
「返してくれよ」背中叩きたい
「戻れない」輝いていた 当たり前に過ぎた日々
「戻りたい」金積んでも買えぬ 幸せの手触り
ほんとの事言えば故郷なんか捨て
やり直せたら軽くなる
ほんとの事言えば故郷背をむけて
田舎棄ててぇ思っていたくせに
「ありがとう」今は照れなく 素直に口に出来るよ
「愛してる」故郷の山川 こだま帰らずとも
ほんとの事言えばこの日なんかくるな
3月11日
ほんとの事言えば永遠に巡るな
3月11日なんて
それじゃお前が不憫 何故逝ったか?生きたのか
それじゃ俺が立ち上がれないだろう 涙拭けないだろ
それじゃお前が哀れ 何で神様仕掛けたか
それじゃ答えを出すしかないだろう お前の代わりにヨ
やっぱり俺が生き残った意味ねえ 恩返さなきゃヨ
皆さんおひさしぶりでございます。
あの日から一年。今日中にどうしても
ここに今の気持ちを表現したく
記載させていただきました。
2時46分黙とうさせていただきました。
亡くなったすべての方々に
深い追悼の思いを込めて