人の為に動け~それこそが我が喜びなり~

皆様こんにちは
ご無沙汰いたしております。
梅雨が明け、連日暑い日が続いておりますが
お変わりございませんか?
お陰様で私は今のところ元気で過ごさせていただいております。

何故今のところなどと言う表現をさせていただいたかと言うと
4年前生命にかかわるほどの重篤な肺炎にかかりました際
前日どころか当日までまったく兆候がなく
いきなりと申しますか、たった数時間で体がおかしくなってしまった
経験を持つ身としては、人間いかなる時も
「私だけは大丈夫」などと過信しない癖?が
悲しいかな?ついてしまったのです

妹には「姉ちゃんが元気と言う時ほど怪しい」と言われ
主人には「まったく同感。あなたを突然の人?(なんじゃそりゃ)と命名する」と
素晴らしい?称号?までいただく有様。
(実際、肺炎の前日妹に電話で、「元気だよ」(ほんとうに元気だったので)
後日、妹曰く「お兄さん(私の主人)から
入院したと電話もらった時は口があんぐりした」

ほんと人間いかなる時でも、「自分は死なない」なんて
とんでもない勘違いは慎んだほうが己の為ですぞ。

私なんぞ、江戸時代ならもうこの世にはいない存在なので
(お陰様でもう50歳まで生きながらえさせていただきました)
これからは「もうけの年」とお気楽に生かさせていただきたく存じますわ。

それにしても気温34度なんて聞くと懐かしいわー。
学生時代短大の栄養学の実習で
お世話になった小学校の給食室。

あそこは40度だったもんね。
煮えたぎる鍋釜を前に
船を漕ぐオールのようなしゃもじを細うで?に握りしめ
100人分のスパゲティ
(余談だが30年以上前はパスタなどというしゃれた名前はなかった)を
船底ならぬ鍋底から
「そーれ、そーれ」と掛け声をあげながら
飛び散るケチャップももろともせず、
流れる汗もぬぐわず、ぽとりと落として少し塩辛い味付けにしたのは
何を隠そうこの私です。
(世田谷の松原小学校の当時児童だった皆様ごめんなさい)

あの時の暑さを思ったら、今日の暑さなんぞ「フフンーッ」です。

「実習は遊びではありません。学校の名誉が掛かっています。
あなた方の一挙一足すべてがあなたの評価につながります。
先輩方が築いてきた誇りと名誉を守ることがあなた方の使命であり
それがあなた方自身の名誉と誇りとなり、今後続く後輩の為になるのです。
先輩の名を傷つけ、後輩に恥をかかせるようなことはゆめゆめなさらぬように。
いいですか。私は授業の中でそのことをすべてあなた方に教えて参りました。

むろんわかってらっしゃるわよね。遅刻、欠席は言語道断。
いかなる理由であろうとも、
もうその時点で栄養士の道はないものと思ってください。
どんなに泣き、わめこうともそれはあなた方自身がまねいたあなた方自身のしくじり。
ご縁がなかったとすっぱりあきらめなさい。
「見苦しい言い訳など私の耳に一切入れないでください」と
再三授業で申し上げて参りましたものね。
運命と思って受け入れる覚悟はもう十分お出来になっているはず。

私が口を酸っぱくして申し上げたことですから
今更これ以上は余計なことは申しません。
一女子大生として恥ずかしくない行動はもちろんのこと
あなた方は学校を背負っているのだということだけは
くれぐれも肝に銘じるように」

私が小学校の給食実習に行く前日に講師の先生からいただいた言葉です。
今にして思えばありがたきお言葉なのですが
(ほんと、先生ごめんなさい)
当時18のお気軽女子大生には、重荷に感じるどころか
普段から煙たい講師の言葉など馬の耳に念仏。
それこそ「ほら、また来たか。フフンーッ」てな感じ。

それでも先輩方が一生懸命がんばってきたから学校の校長先生が今年もぜひと
受け入れてくださったという話を聞けば、やはりがんばらなくてはと思い
又私がしくじれば、来年はどんなに先生が頭を下げても受け入れはないという話を聞けば
後輩に「悪しき手本にはなるまいぞ」と奮起できるもの。

確かに当時の授業は大変厳しく、授業は3回遅刻で一回の欠席
(電車が遅れた場合も証明書提出)とみなし
喪中を除き(もちろん証明書提出)いかなる理由があろうとも
2年間で3回欠席だと栄養士コースから除名となった。
(ちなみに私は一日だけ高熱で休んだが、翌日注射を打って授業に出席した経験を持つ)
事実、入学時70名以上の在籍した栄養士コースの卒業時の免許取得者は50名以下だった。

厳しかったが、あのときは自分の栄養士の免許欲しさという
欲深さ?も働いて
このドジでオッチョコチョイの私が(実際、何度先生を泣かせたか。
「あなたは学校始って以来」と先生に言わせてしまったのが
再び何を隠そうこの私めです。(わーッほんと先生ごめんなさい)

これらのエピソードはいつか機会があったらお話いたしますが、
あんまり迷惑かけたから、結婚してから先生の退任式がお茶の水で行われた時は
なにはともあれ「詫びをするならこの機会を逃してはなるまい」と
中央線に乗って先生に頭下げに行ってまいりました
と脱線が長くなりましたが

要するに自分でも「おまえは奇跡を起こせる人間か」と驚くほど
遅刻、欠席はもちろんのこと、連日40度を超す残暑厳しき給食室で
まったくと言っていいほどグーの根も言わずがんばれたのです。

(ほんと、あたしにしちゃよくやったわよ。
今なんか年も手伝って、一日どころか半日だって体がもちゃしないわよ)

2週間の実習を終え、学校に報告に戻った際先生から
御褒めの言葉をいただき大変嬉しかったのを
30数年たった今でも昨日のように思い出す。

「ほんとうにがんばったわね。あちらの校長先生はじめ栄養士さんも
素晴らしい学生さん方だった。来年もぜひとおっしゃってくださいましたよ。
3名とも明るくハキハキ挨拶してくれて朝から気持ちがよかった。
子供たちにも積極的に声かけして給食のお姉さん?と慕われていたと
校長先生が絶賛されていましたよ。

特に感心されたのは、この暑さにもかかわらず、一度も暑いと弱音を吐かず、
何かやることはないですか?といつも動きまわっていたことだそうですよ。
現場の調理師さん達からももう一度お金を出してもいいから手伝いに来てほしいと
の言葉がでたそうです。こんな名誉なことはありません。私の誇りです。
今後もこの言葉に驕ることなく精進してくださいね」
と最後はしっかり釘をさされたのは
私の性格を今思えば先生はちゃんと見越していらしたんだわ。

今こうして打っていると当時を思い出して涙がこぼれてくる。
お金を出してもいいから手伝いに来てほしいなんて。
あのときはそれこそ「実習だからがんばったけど、もうご勘弁を」が
正直な気持ちで、まして涙がこぼれるほどの喜びとはまったくの無縁だった。

自分が栄養士コースを習得することで頭がいっぱいだったが
あの時声を掛け合い、頑張れたのも仲間がいたからだと
改めて感謝したい。
「暑いけど頑張ろうね」「一緒に卒業しようね」
何気ない言葉にどれだけ救われたか。

やはり自分は先生の言葉が示すようにどこかですぐ天狗になる性格だと
この年になってようやく恥ずかしさがこみ上げてくる。
あれから「お金を余分に出してもあの人にきてもらいたい」という
ありがたい言葉を頂戴するような仕事をしてきただろうか?
「あの人でなければダメ」と人に言ってもらえるほどの
事を成してきただろうか?

妹や母は「あなたじゃなければだめ」と職場を去る時
泣いて引き留められた経験を持つ。
素晴らしき我が妹、あっぱれ我が母。

それに引き換えこの私。
卒業してから栄養士として結婚するまで病院で勤務させてもらったが、
収入を得るだけの場と軽んじていなかっただろうか?
自分は収入をいただいただけの働きをしただろうか?
働くという字は人の為に動くと書くが
私は人に喜びを与える動きをしただろうか?
今思うとかなり怪しい。というかほとんど怪しい。

この暑さの中しみじみと今更ながらの猛省と
深き受戒を込めつつ、過ぎ去った
様々な夏に思いを巡らす今日この頃です。

「暑い中で働く自分を憐れむのではなく、暑い中で働ける自分の身を賛辞したき」
「点滴の細き針刺し横たえたわが身照らすは一隅の夏」

今日も読んでいただきありがとうございました。


遅ればせながら母の日に捧げる~ありがとう母ちゃん~

こんにちは  

皆さま本当におひさしぶりでございます。
最後に皆さまとお目に?かかりましたのは
秋の終わり頃かと存じますので
約半年ぶりぐらいの再会?とあいなりましょうか?

その間、皆さまにおかれましては
いかがお過ごしでいらっしゃいましたか?

早いもので季節は巡り、冬が行き、桜が咲いても
尚も冷たく寒い時期が続きましたね。

私もその間に50歳になりました。

連休になってようやく春めいてまいり
そんな陽気につられてでしょうか?

私もようやくブログを書く気になってまいりました。

思えば昨年秋、母の介護をしてから一年の月日が過ぎたある日
いきなり私の体に変調が起こりました。

これはあくまでも私流の表現で皆さまには
お解りづらいかと存じますが
頭の中が「パッツパッツ」状態になってしまいました。

ここからはさらにお恥ずかしい表現で大変恐縮なのですが
(女性の方なら多少ご理解いただけるかと存じますが)
前頭部に子宮?が乗り移った?様な感じになってしまったのです。
(男性の方には当然理解不能かと存じます。夫も???です)

母の介護疲れだったのでしょう。
体の動きと感情が、ごちゃ混ぜと申しましょうか
とにかく心の置きどころがないと申しましょうか
表現に苦慮するような日々が続きました。

日常の生活自体がパニックに近い状況なものですから
当然落ち着いてブログなど打てるはずもなく
「とにかくブログどころかしばらくパソコンから離れさせて欲しい」と
先生に申し上げた次第です。

今思えばそんな私の状態が母に悪影響を及ぼしたのでしょう。
ようやく歩き出せるようになった母をベットから落としてしまったのです。

この時は幸いにも骨に異常はなく、2週間の入院生活でしたが
そこは年寄り84歳。たった2週間の入院でも
元の生活には戻れませんでした。

介護生活はさらに厳しさを増して行きました。

それまではなんとか手すりにつかまって歩けて
トイレに行けていた母に
毎回トイレの往復どころか用足しまで
付き添うようになりました。

付き添うのはトイレだけでは済まなくもなりました。
食事も側についていないと食べないどころか
いつまでも箸をつけないような状態になったのにも
正直慌てました。
介護用語で食介(しょくかい、すなわち食事の介護の略)という
言葉を知ったのもこの時でした。

その日から又、介護仕切り直しの日々が始まりました。

冬の寒いさなかは風邪を引かぬように予防接種を受けさせたり
多少なりとも私なりの気遣いもいたしました。

夜は足湯と称し毎晩洗面器に熱いお湯を張り、
冷たくなった母の足を揉んでは
喜んでくれたりいたしまして
ずぼらな私にしては良くやったと
自負いたしておりますデス。ハイ

食事もさらに細かく切ったりつぶしたりと
これまた私としては誕生以来?の親孝行。

馴れぬ?気遣い疲れか?
はたまた親孝行ぶりが板についていないせいだったのか?

母は一度も風邪を引かなかったのに
私ときたら新型と季節型の両方の予防接種まで受けながら
(ホント、けちな私がバーンと高額払った割には
ちっとも効かずで、「トホホ」でした)

熱は出すわ、ヘルペスに悩まされるわ(唇が「たらこ」状態)
治ったかと思うとまた今度は吐き気だ、悪寒だ、そらまた熱だと
病魔に襲われたごとくのオンパレード。

母の主治医の先生は「今年お母さんの顔一度も見てないのに
娘さんばっかりだねえ」とあきれ顔。
仏の顔も三度じゃなくて患者の顔も三度ならぬ四度では
さすがの先生も「どっかやられてるんじゃないか」と
本気で?心配する始末。

ところがどっこい話はここで終わらない。
私の唇が「たらこ」から元のカワユイ?唇の戻り始め
頭のボケはあいかわらずでも「パッツパッツ」からは
抜け出し、やれやれ、もうご勘弁をと思った矢先。

そうだ。あれはバンクーバーオリンピックでキムヨナが
ドキューンと片目をつぶって男性陣を悩殺し
(真似して旦那に笑われた)
真央ちゃんがジャンプでスケート靴を氷にひっかけた日だった。

織田の末裔が靴紐で転んでも
母は転びもしないのに
しかももう口も聞けないのに
やたら腰が「痛い、痛い」と騒ぎ出した。

二日間様子を見たが、やはり「痛い」を連発する。
「これはただごとじゃない」

まったく動けないので秋に続いて
二度目の救急車のご搭乗とあいなった。
一緒に暮らしてからは三回目のお呼び出し。

お陰で?すっかり救急隊員とは顔なじみ。
母はまったく覚えてなくても
「おばあちゃん元気?ひさしぶりだね」
「今日はどうしたの?」と馴れたもの。

病院で「ご苦労様です」と頭を下げたら
「娘さん、ご苦労様だね。今回は命には別条ないから
これからもおばあちゃん大事にしてあげて」と
逆にねぎらわれた。

その言葉に、張り詰めていたものが
靴紐じゃないがプツリと切れて
真央ちゃんが泣いた時以来、再び私の目からも涙があふれ出た。
「ありがとうございます」
救急隊員さんに心から礼を述べた。

診断は背中の圧迫骨折。骨がもろくなっていると
たとえ転んでいなくて寝返りや、くしゃみでさえ折れてしまうそうだ。

「転んでもいないのに」
悔しかった。一時も目を離さず
転ばせないようにそればかりに心を砕いてきたのに。

一日5回も6回もトイレに付き添い、
ベットの起き上がりに手を貸し、
母の体に寄り添うように生活してきたのに
あんなに気を使ったのに
そう思うだけでいくらでも涙がこぼれた。

緊急にあてがわれた個室で
私は人目を気にすることもなかったので泣きに泣いた。

「ごめん母ちゃん、こんな痛い思いさせて、それも二日も放っておいて」

でも泣くのはすぐにやめた。なぜなら
口のきけぬ母から思いがけない言葉が飛び出したからだった。

「泣いたってしょうがないよ」
それは驚くほどはっきりとした口調だった

そうだ母の言う通り。
私が泣いたって母の骨がくっつくわけじゃなし。
そう思ったら、心が救われた気がした。

そしてすぐに笑った。
「母ちゃんすごいじゃん。こんなに話せるじゃん」
母もわずかに微笑んだ。

それから2カ月の入院生活が再び始まった。
私は連日のように母の待つ病院へ足を運んだ。

片道45分ほどかかる道のりを私はひたすら歩き通した。
バスもあったが本数が少ないせいもあって私は歩きを貫いた。

桜の花びらに雪が混ざるような日は
寒さが疲れた体に鞭打つようで
正直気が滅入りそうにもなった。

傘を持つ手がかじかむような鼠色の夕刻は
多少足取りも重たくなった。

私を追い越して行くバスをうらめしく見送りながら
「私って馬鹿だなぁ」と一人つぶやいたりもした。
(無理しちゃってさ。ホントおバカだよね)

それでも心まで重たくならなかったのは
それでも二ヶ月間通い続けることができたのも
時には鼻歌なんか歌いながら歩けたのも

母の薄皮を剥くようではあるけれど
日々いくらかの回復がみられた事と
毎回私の顔を見てホッとするような
表情を見せてくれる母に会いたさ故に他ならなかった

そして何よりも入院初日の
「泣いたってしょうがない」の一言が
最後まで私を支えた。

あの口のきけない年寄りの
ヨボヨボになった母がワンワン泣き叫ぶ私に
ガツンと雷のごとく落とした一言が
私を強くしてくれた。

退院してから今日で2週間。
あいかわらず一日が風のように過ぎていく。

介護の勉強をしたわけじゃない私が
オロオロしながらも
母ちゃんをただの「勢い」だけで看られるのも
ぜーんぶ母ちゃんあってで
それ以外のなにものでもないね。

今流行りの?育児放棄ならぬ「介護放棄」せずに済んでいるのも
ここぞという時に発揮してくれる
「母ちゃんパワー」のお陰だね。

遅ればせながら母の日に捧げるよ。
ありがとう母ちゃん。