父の日に思うこと

今日は父の日。

思えば父が生きていた頃、我が家では
父の日にかこつけて?
ごちそうが並ぶ日だったなあ。

私が生まれた昭和30年代は、
世の中まだまだ貧しくて
普段はつつましやかに暮らして(これをケの日と言ったの)
正月とか、祝い事がある日になると
(これを晴れの日と言ってみなソワソワ、ウキウキしたものでした)

それこそ今みたいにデパ地下なんて言葉自体存在しなくて、
おかずといえば自分の家で作るしかなかったから
近所の八百屋あたりで材料買ってきて
家で母親が割烹着を着て
(今はエプロンになっちゃったけどね)腕を奮うわけよ。

その傍らで手伝いさせられて?
でも海苔巻きの端っことか、
料亭ばり?熱々揚げたての天麩羅が口に入るわけね。
(ただつまみぐいしてただけじゃないの?)

そんなこんなで大騒ぎして、ちゃぶ台(今のテーブルね)を家族で囲むわけ。

まあそもそも父の日は、お祝い事の日ではなかったし、
(もっとも小さい頃、父の日自体が存在しなかったな)
ほら普段つつましくやってるでしょ。
なんだかんだ理由つけて御馳走食べたいから
この日ばかりは「それっ」とばかり乗っちゃうわけよ。

父も父でプレゼントはもらえるし
何より「お父さん。ありがとう」なんて
家族中からうやうやしく、
面と向かって言われるもんだから
まんざらどころか、
にっこりの極みだったろうな。

母は母でふだんは喧嘩ばっかりしてるんだけど
「お父さんのプレゼント何しようか?」
「今年はお父さんの好きなお寿司作ろうか?」なんて
心浮き立ってんのが子供ながらわかって、
それはそれで可笑しいし、なんか安心するわけ。
「あっ、家の父ちゃんと、母ちゃんもうしばらくは大丈夫」なんてさ。

だから母親はこの時とばかりやたら奮発しちゃうし、
力入れて「これでもか」って手料理作るから
食べる父だって褒める。褒める。

「いただきまーす」「うわっおいしそう」

「旨いなあ。」一口食べては
また「ほんと旨いなあ」を連発する
父の言葉に、私たちもつられて
「あーおいしい。」「あー幸せ」
なんて言いながら
バクバク?食べまくった。

お陰で、私も妹もまったくと言って好いほど
好き嫌いなく、健康で丈夫に育った。

どんな店だって、例えば駅の立ち食いそばだって、ガード下の店だって
(失礼。でも旨きゃオーケーなの。許して)
誰と食事をしても(まあもっとも気を許した人とじゃなきゃ食事誘わないけどね)
楽しいと思える舌と心を授けてもらった。

加えて食事を作る楽しみや、
ありがたく御馳走を食べられる「幸せ感」までも
食事と共に味わうことが出来るのも
あの食卓から学んだことだった。

そして何より今思うと貧しい食卓だったが
(夏の夕食だと、冷奴、胡瓜に紫蘇や茗荷を刻んだ漬物、冷やしトマトに
茄子の焼き物とだいたい相場は決まっていた。)
これに隠元と南瓜と厚揚げの煮付けなんかついた日には
「今日は贅沢だ」とそれだけで大騒ぎになった)
それでも家族で囲む食卓がいかに
楽しく心豊かにするかを父が身をもって?
教えてくれた。

昨今食育なる言葉が叫ばれているが、
改めて食育なんて声高に叫ばなくても
昔は各家庭で、それこそ親が
食事を通していろんなこと教えていた。

躾けなんてぎょうぎょうしく言わずとも
箸の上げ下ろしに始まって
口にものが入ってるときはしゃべるなとか、
ひじ突いて食べるなとか、
正座して食べるから、
「食事のときは足崩すな」等々
いろんな言葉がちゃぶ台の上を飛び交うわけよ。

それこそ毎晩と言っていいほど
口うるさく言われるんだけど、
その合間をぬって?

「このコロッケ旨いな」とか、
「どうだ。遠足楽しかったか?」「うん、バスの中で
物まねした子がいてさ、もうおもしろくって、おもしろくって」
「そうか。良かったなあ」なんて会話で盛り上がってるもんだから、
(まあお腹がへってこっちはそれどころじゃないと、ガッついているから
怒られても「ほーらまた、始まった。くわばら。くわばら。」
とばかり軽く受け流せちゃたんだよね)

だから今思うと「楽しい食事だったなあ」って
怒られたことまでぜーんぶ面白おかしく、又懐かしいのよね。

「父親の威厳」なんて言葉が世の中薄れてるらしいけど、
あの頃は威厳を保たせようと、世の母親や子供達が
一生懸命けなげに持ち上げてたとこもあるよね。

「いいかい。今日は父の日なんだから、
父ちゃんありがとうってちゃんと言うんだよ」なんて
しっかり母親から念押しされたもんね。
「うん。わかってる」なんて今思えば
あれは十分綿密?な作戦タイム?だった。

叶わないことだけどあの頃みたいに
又食卓を囲みたいな。
どなられてもいいから又父ちゃんの声がききたいな。

「ほら、陽子何度言ったらわかるんだ。里芋を箸で突付くんじゃない」
「この天麩羅旨いなあ。母ちゃんの揚げる天麩羅はへたな天婦羅屋負かすな」
「あーら、おとうさん。上手いわね。でもありがと。」
「いやー。ほんと旨いよ。なあ?」
「うん。美味しい」「お母ちゃんの煮っころがしも最高」

「あのね、今日学校ですっごく可笑しい事が起きたの」(私)
「どうせまたお前がなんかやらかしたんだろ」(父)
「やらかしたんじゃなくて勝手に起きちゃったの」(私)
「そんなのありっこない。お前がやんなきゃ誰がやんの」(母)
(まあ確かに親の言うことは当たっているので、私としては何もいえないのだが)

「フン。でも聞いて。聞いて。」かくかくしかじか、家族全員しばし大笑い。
でその後、
「あー可笑しかった。お前の話で涙が出たよ。」(母)
「ああーお腹よじれちゃった。でも姉-ちゃん。(しばし妹絶句)
あーん母ちゃんよかったよ。私姉ちゃんと別な学校で」(妹)
「ほんとだよ」(母)
「まったくだ。しかしお前の学校の話はおもしろいな。」(父)

「それにしても学校の先生もお前みたいのがいっぱい居て大変だなあ」(父)
「ほんと、先生もご苦労様だわね 」(母)
(えーっ話がそっちに行っちゃうわけ)

(しかし今再生?してみるとこんなハチャメチャ?な会話
これすべて真実なんだもん。やんなちゃうよね。

こんなのがほとんど毎日華々しく?繰り広げられる我が家って
いったいどういう家だったんだ?まったく笑えるよね。

嘘も誇張もしてないんだから、
考えたら私って恐ろしい?家で育ったもんよね)

(勉強への期待もとうにあきらめてくれていたので
(この話もまた別の機会にお話いたしますわね)
心おきなくお馬鹿な話ができたのも私の救いだった。)

そんな他愛もない話しながら、
母ちゃんの漬けた胡瓜のぬかづけバリバリ言わせながら
父ちゃんの好きなアジのフライなんか揚げたてをハフハフしながら
そんな時間のすべてを抱きしめてみたいな。

豪華な料理なんか並ばなくていいからさ、
おしゃれなレストランなんかじゃなくていいからさ、

縁側に蚊取り線香たいて、蛍が部屋に飛び込んできて
ガラッーと開いた窓から
涼やかな風が入り込んでくる
(昔、横浜の実家はまさにこんなだった)

食後ごろんとそのまんま寝転べる畳の部屋でさ、
「コラッ、まったくお前は行儀が悪いな。」
「ほらほら、食べてすぐ寝たら牛になるよ」
なんてまたお小言のひとつも言われながらも
家族みんなでご飯が食べたいな。

あー、父の日はだんなの日?でもあるから
ついでに?だんな様の好物でも作って
おまけに?少し持ち上げて
日ごろの労でもなぎらってあげちゃおうかな。
(えーついででおまけなの?)
さてと、ごちそうでも作ってあげちゃおうかな。
(ええーあげるじゃないの?)

今日も他愛ないお話読んでくださって
ありがとう。

梅雨に似合わぬ暑さが続いております。
お体を大切になさって下さいませ。
それではごきげんよう。

youko

話し方は「やったもん勝ち」

こんにちは、皆さんお変わりございませんか?

今日は「やったもん勝ち」のお話をさせていただきますね。

話し方教室には、日々沢山の問い合わせがくるのですが、
その中で、一番多いのが、教室に通うのが怖い、
要は、一度職場や、結婚式等でスピーチをして
失敗して、教室へ通って又失敗するのではないか?
すなわち以前の失敗がトラウマになっていて
なかなかそこから抜け出せず、悩んで悩んで苦しんでいる人が
圧倒的なんですね。

「人前で話したことがないので、
(もしくは失敗したことはないのですが)
上手く話ができるかどうか
試してみたくて通いました」という方には
皆目お会いしたことがございません。

裏返せばいかに今まで、大勢の前で話すチャンスがなかったか。
もしくは、チャンスがあっても逃げてきたか。
(まあお話しを伺っていると「逃げてきました」が、
ほぼ100パーセントですね)

自分自身を自慢するようで大変恐縮ですが、話の上手い下手はともかく
教室に通われた生徒さんの誰よりも、いや先生よりも
「学校の講堂の壇上」で話をした回数なら負けていないと
絶対の自信があります。
(こんなのに勝ち負けなんかあるかいな?)
すなわち社会人になる前に、中学、高校、大学と
いろんな役員会を渡り歩き、特にお祭り好きでしたので
体育祭、修学旅行委員、文化祭役員など
時には二股?三股?なんぞざらでした。

お陰で学業は自慢できるほど?
からっきしアホでございましたが、
(またまたこんな自慢あるかいな?)
そのたびに嬉々としてひきうけたからには
「女ですもの。これきしのこと。ここで逃げては女がすたる。
女は愛嬌より、度胸が勝負」とばかり
(あのー 陽子さんなんか勘違いしてませんでした?)
もうほとんどやぶれかぶれ状態で壇上に上がる始末。

上がったのはいいけれど、今度は心臓が上がりまくり状態。
それでも崖っぷちに、立たされてる様なものだから
もうやるっきゃないだわよねぇ。

ほーんと自分でもいやなら役員なんか引き受けなきゃいいのにって
何度思ったか?でもやっぱり好きなほうが勝っちゃうわけよ。
何回「あたしってほんと馬鹿だわね」って思ったことか。

長々話をさせていただきましたが、要は
誰よりも心臓が上がった回数が多いという
どうしようもない自慢話なのですが、
ねえ、ちょっと安心しない?

そのあたしがいまだに上がるわけよ。
さんざん壇上に上がった私がよ、情けないわよね。
50近くになっても
いまだに足ガクガク、声フルフルよ。
「ちっとも上がってるように見えないんですが」
皆さんお優しいこと言ってくださるけれど、
ただ年取って「上がって見えない演技」が上手くなっただけなの。

考えてもごらんなさいよ。
神様仏様じゃあるまいし、
ねぇ上がって「当然」ナノヨ 。

10回失敗したって失敗と思わなかったもの。
悩んだのはね、話す前に自分のほんとに話したいことが
皆に「伝わるかな」ってことだった。
一番心砕いたのは、どうやったら心が伝わるかなってこと。
言葉じゃないの。心が伝わればそれで十分だと
いつも思って壇上に上がった。

「聞いて私の話」をじゃなかった。「感じて私の心」を
いつもそう思って壇上に立った。
だからカッコなんかつけなかった。
一番伝えたい自分の心に、
一番沿った言葉を選んだ。
嘘は決してつくまい、ありのままの気持ちを
正直に伝えたい。悩んだのはそこだけ。
「自分の心情を砕く事」に心底、心砕いた。

聞くものは正直だ。心が伝わったときは
惜しみない拍手や、時にはすすり泣く声も
私の心に届いた。
それも「まっすぐ」に届いた。

話の内容は失敗だらけだったが
どんなにドキドキ上がっても
心が通じたときはもうそれで
いやそれだけで十分だと思った。

だから自分の上がったことに失敗や恥ずかしさはなかった。
むしろ気持ちが通じない自分の未熟さが
たまらなく情けなく又悔しかった。
今思うとその悔しさが、自分自身が腹立たしくて
私は何度も何度も
あの体育館の壇上に立ったような気がする。

あまりにも正直に反応してくれて、
あの時は憎たらしささえ覚えた
今は愛しき仲間たちが私をいつも壇上へ壇上へと
駆り立ててくれたのだと思う。

先生や、大勢の生徒や、学生を前に
自分のやりたいことや、
皆に協力してもらいたいことを
精一杯、心を込めて訴え続けたかった。

内容はからっきし忘れたが
何十年経っても、あのときの熱い気持ちだけは
今も忘れられないのはやっぱり
悔いなく精一杯やったからだと思う。

一番逃げたいものから一番逃げたい時は
その一番逃げたいものの懐に飛び込むのが
最良であることを体感した。
自分自身の悩みから逃げれば逃げるほど
余計に追いかけてくるというのを
悩みが悩みを呼ぶことに気がついた。

気がついた時、傷ついた時
再び懐に飛び込むことを許してくれた、
先生や大勢の仲間たちには感謝したい。
私のただ熱いだけで内容なんか空っぽの下手な話に
何度も付き合ってくれて、一緒に学祭や体育祭を
盛り上げてくれたあの仲間たちに心から感謝したい。

「イヤー今日も足が震えたよ。」「いい話だったよ。体育祭がんばろうね。」
「失敗しちゃったよー」「いい。いい。やったもん勝ちよ」
そう言って励まし、盛り上げてくれた友達の何人かはもうすでにこの世にはいない。

ありがとね。あたし相変わらず臆病でさ、未だに震えてるけど
気持ちだけは奮い立たせているからさ、「相変わらずあんたらしいね」って
あの世でみんなで笑ってよね。

「やったもん勝ちよ」と給食費の未払いや保育費の滞納は論外だけど
「自分に打ち勝つ」やったもん勝ちはおおいに結構。

ガンガン自分自身の成長の為に心の壇上に立ってください。
体育館の壇上を高くするか低くするかは
皆さんの心次第です。

どうぞ皆さんの悩みの壇上は低く、志は高く
時にはスポットライトなんぞがあたるような
まぶしい人生の舞台となりますようお祈りして
今日のお話を終えたいと存じます。

いつも読んでいただきありがとうございます。
お体をお大事に

youko

話し方であなたの心に花束を(いやバウアーはだめよ)

こんにちは
皆さんお変わりありませんか?

話し方教室の最初の授業で、
先生がよく生徒さんに聞く
質問の1つに、こんな質問があります。

「皆さん、普段挨拶されますか?」
ほぼ100パーセント手が挙がります。
「それでは自分から先に挨拶されますか?」
これまた100パーセント近く手が挙がります。

「では、皆さん今日この会場に入られた時
私(先生)より先に私やここに居る皆さん方に
進んで挨拶をされた方いらっしゃいますか?」
「その席に座られるとき、今居るお隣の方に挨拶された方は?」
毎回、お見事と言っていいほど挙がらないんですね。これが。

でも、これがほんと正直なところでしょうね。
それはそうですよね。
無理もないなと思います。
あがり症で、人前で話すことが苦手な上に
(今まで「死にたい」言われた方、数知れず。
実際本気で自殺するのではないかと
先生と心配で授業後、後を追いかけたこともありました。)

ましてどこの馬の骨だかわからない(先生のこと)
おまけに授業料「前振込み」までしちゃってよ、
もしかしたらトンずらされているかもしれない
得体の知れないおっさんに
(うわッ先生。本当にごめんなさい)
初めて会うのに、

しかも何ヶ月も
(何年もコンピューターの前に座りました
と言う方もいらっしゃいました)
行くか行くまいか悩みに悩んだ末、
思い切ってようやく会場まで足を運んだのに、
(「だめです。できません。やっぱり行くのを止めます」
と上野駅で踵を返した方、数名いらっしゃいましたっけ。
はたまた教室のドアの前から「怖くて入れません」と
ケータイをかけて来た方もいらっしゃいました)

ほんとドア開けるんだって、ドキドキものよねぇ。
ほんとは泣きたいぐらいなのにね。

それが追い討ちかけるみたいに
「明るく元気で挨拶しましたか?」
なんて言われたってそれこそ「酷な質問よ」。

「そんなことぐらい、軽い。軽い。わけないですよ。
早く人前で話しをしたくてウズウズしています」って言えるぐらいなら
「フン。誰がわざわざこの忙しい時に、話し方教室なんかに
高い金払ってまで行くかいな」ですよね。

教室にこられる方には、2通りのタイプがあるのですが、
「 雑談はオーケーなのですが、人前で話すのは、苦手なんです。」
こちらが90パーセント。
もう1つが「雑談が苦手で何を話していいのか判らないんです。」
が残り10パーセント。
どちらにもある共通点がありまして
何かな?と言いますと

「誰にでも先手の挨拶躊躇なく」なんですね。
どうですか?心当たりありませんか?

挨拶は知っている人だけじゃないですか?
家族とは交わしていますか?
心を込めていますか?
お互い笑顔ですか?

はい、そこのおとうさん。今朝、奥さんにお茶をいれてもらって
その後どうしましたか?
まさか黙って飲んで「そのまんま」じゃあございませんわよね。
「ありがとう」はもちろんおっしゃいましたでしょ。
「おいしかったよ」は新婚時代だけ?なんて
「めっそうもございません」ですわよね。
まさか釣った魚に餌はやらないなんて
のたまうてはいらっしゃらないでしょう。

「エツ、これも挨拶?
しかも奥さんにまで挨拶するんですか?」
(実際、教室で言われた方がいらっしゃいましたのでご参考まで)

そうなのです。挨拶はなにもおはよう、こんにちは、こんばんはだけじゃないのです。
「ありがとう」と「言葉に出して」「感謝する」。
これも立派な挨拶なのです。
いいえ、これこそが「本物の挨拶」なのです。

マンションの管理人さんに「おはようございます。いつもご苦労様です」
同じマンションの住人とエレベーターで交わす「こんばんは」
暑い日ならば「 今日は暑かったですね」の一言でもいい。
若いお姉さんに「今お仕事帰りですか?お疲れ様でした」なんて言われたら
どうです男性諸君?
これで不愉快になる男性がいたらお目にかかりたいわ。
ちょっと一言加えるだけで、その後のマンションライフは格段に変わる。
間違いなく変わる。これは実証済み。
どう変わるかはあなた自身がお試しあれ。

会社のお掃除のおばちゃんに
「こんにちは。きれいになりますね。いつもありがとうございます」
自分が働く場所をきれいにしてもらっていて
お礼のひとつも言えないなんて
こんな情けない話、大人ならみっともないと思いなさい。

コンビニのお兄さんにレジで黙って
かごを突き出すだけじゃ能がない。
これなら子供だってできる。
一言「お願いします」

袋を渡されたら「ありがとね」
幼稚園児だって言えますよ。
少しは恥ずかしいとお感じなさい。

スーパーで長ネギを買った。「お切りしましょうか?」
「ハイ」だけじゃない「ありがとうございます」の一言なんぞ付け加え、
も1つおまけに、「お手数かけて悪いですね」なんて言えたらこれで
あなたはたちまち話し方教室の上級者。

お客だから、こっちはお金を払ってるんだからでは
心がふんぞり返っているようじゃあ
いつまでたってもあなたは大人になれない。

スピーチが上手くできないから死にたい。と
いつまでも口にしているようでは
心が前屈(前かがみ状態)になってしまって
毎日ぜんくつどころか「うつうつ状態」。

(これらの状態を「逆否バウアー」と言う
また挨拶がわずらわしいからいやバウアーとも)
(荒川さんごめんなさい)
いくら話し方教室に通っても真の上達は望めない。

心が伴って初めてあなたの話し方は磨き上げられる。
人前で上がってしまってみっともない。
上手くしゃべれなくてはずかしい。
もうその心は、お捨てなさいな。

人間なんだから、上がって当然。
上手くしゃべれない事に
なんら卑屈になることないですよ。
恥ずかしがったり、みっともないなんて
いつまでもこだわる事ありませんよ。

ほんとうにみっともないこと、恥ずかしいことが
何であるのかをきちんと「 心に身に付ければ」
美しい話し方はおのずとあなたの「体にまといついてくる」

それは花園からにおい発つような、
芳香を伴っていやがおうでも
あなたの全身にまといついてくる。

それだけじゃあない
そんな一言が、あなただけじゃない彼らのやる気を引き起こす。
「ああスーパーのレジ打ちも大変だけれど、あんな感じの良いお客さんもいるんだ。
今日で辞めようと思ったけど、もう少し頑張ってやってみようかな」
なんて事だって無きにしも非ず。
目には見えないけれどあなたは貴重な人助けをしたことになる。

又、電車でお年寄りが乗ってきたらスッと立ち上がり「どうぞおかけください」
時には「ありがとう。悪いわね」なんて嬉しい言葉が返って来る時がある。
そんな時には、ニッコリ微笑んで「お気になさらないで下さい。」
もっと嬉しい人は降りる際「ほんとにありがとう。助かりました」なんて
言ってくれる人もいる。「どういたしまして。お気をつけて」なんて言ってあげると
本当にいい笑顔を返してくれる。
そんな時は心から「ああ、今日は最高にいい日だったなあ」と思う。

以上これら「行動全て」に「笑顔をくっつけて」御覧なさい。
それも「とびっきりの笑顔」を。

それはあなたの心のうちに音楽を奏でてくれる。
雨音の調べのように、暖かくあなたの全身を潤してくれる。

人前で話すのが苦手なら
これ以上の練習はないですよ。
練習の場は日常にいくらでも転がっていますよ。

話し方が上手くなりたかったらまずは挨拶から。
先生がいつもおっしゃっている
「挨拶は先手で明るくはっきりと」

心をあなたから開示する。
恥ずかしさや、意地っ張りや、
引っ込み思案さえ
あなたがあなた自身を許せば
柔らかく溶けていく。
そろそろ自分自身を開放してあげたらいいんじゃないかな。
心が窮屈で、悲鳴を上げているよ。

話し方教室は、あなたの心を開放する
教室でもあるのです。

どうぞ全身全霊をかけてささやかな日常を
積み重ねていって下さい。

どうぞ全身全霊で震えるようなありふれた日常を
感じ取って下さい。

多くの生徒さんがこの「いやバウアー」とは対極の
「スピーチの足の震えではない
ありふれた日常で震えがあることを体感しました」と言って
卒業して下さいました。
これ以上の喜びはございません。

さああなたもご自分の心に
匂いたつよな花束を
青い心の氷上に
トゥーランドットの名曲を

捧げてあげましょう。
奏でてあげましょう。

感謝を込めて今日のところはこれまでといたします。
お体をお大事に

youko