自分以外はすべて師に感謝

こんにちは 皆さんお変わりございませんか?

さてこちら浅草も朝顔市のお知らせが
街角に張られる時期になって参りました。

浅草は年がら年中お祭りがあって楽しいところです。
主人も例年忙しい仕事の合間をぬって町会のお祭りに
参加させていただいておりましたが
今年は土曜、日曜とも仕事が入ったため
祭りそのものには参加はいたしませんでした。
その代わりといっては大変おこがましいのですが
祭りが終わった翌日の片付けに主人は
早朝より参加させていただきました。
帰ってくるなり主人は「ほんと、この町内会の人は
いい人ばっかりだよ。俺なんか片付けだけなのに
「打ち上げまで来い」って声かけてくれるんだぜ
ありがたくてさ、涙が出そうになったよ。」
ほんとそうなのです。この浅草に千年以上続く伝統ある
お祭りに、引っ越してきてわずか3年ほどのいわば新参者に
快く声をかけてくれる町会の皆さんには
こちらこそ大変ありがたく思っているのです。

町会のありがたさといえば、私の実家の横浜の町会も
負けていませんよ。
以前お話した少し呆けてきた私の母が月に2度ほど
老人会の輪投げ遊びに参加させていただいているのですが、
実は一度「呆けてきたので退会させたい」と申し出たところ
お年寄りの皆さんが口々に「皆、同じなんだからやめさせないほうがいいよ」
「一人で家に居たら余計呆けちゃうから、無理してでも来たほうがいいよ」
そこで送り迎えだけは私がするということにして
輪投げの時間だけは皆さんが「面倒見るから心配しなくていい」
と言ってくださる、その言葉に甘えさせてもらって
再開することにしたのです。

終わる時刻を見計らって迎えに行くと母はニコニコした顔で
皆さんとお茶を飲んでいます。
「楽しかった」「楽しかったよ」それがいつもの私と母の会話です。

そして帰るとき。私はいつも涙がこぼれそうになるのです。
「またおいでね」「体に気をつけてね」
皆さんが一斉に母に手を振ってくださるのですが
そのときの皆さんのお顔が本当になんともいえない
実ににこやかで、おだやかで
なんか菩薩か観音様かというような笑顔なのです。
その笑顔に涙が出そうになるのです。

私はただありがたくて、ありがたくて
「お世話になりました。ありがとうございました」と言って
頭を下げるのですが
母も子供のように喜んで手を振る姿を見ていると
「ああ連れてきてあげてよかったな」と思うだけでなく
人が人として生きていくために
何が必要で、その必要のために
神様が授けてくださった人の縁のありがたみに
そしてその縁のありがたみを私に教えてくれる
他人のかぎりない優しさに
ひたすら感謝したくなるのです。

人はどんな人でも悪にもなり菩薩にもなる。
誰とどんな風に交わったか。
人は自分ひとりで形成されるわけではない。
今の自分のものの考えや行動は
生きてきた中で交わってきた数かぎりない人々に
よって創生されたのだと思うと
その縁の不思議さを思う。

今あなたが憎んでいる人(嫌いな人でもいいかな)が
いるとしたら、それはあなたが生きてきた時間の間で
あなたが「人を憎むという心」 を形成しちゃったんだよね。
「相手が悪いんだよ。自分はそんなこと思う人間じゃないよ。
こいつがいなかったらそんなこと思わないよ」
普通はそう思うよね。
昔の私もそうだった。
でも考えてみて。

傷つくと言うことは相手あってのこと。
相手の言葉に傷ついたとあなたは言うけれど、
その言葉が返ってくるまでの間
そう、もっと詳しく言うと
そうなるまでのあなたと相手の間に
流れていた長い時間の数々。
その間二人はどんな会話や行動を
交わしていたの?

そこに相手に対して甘えはなかった?
相手にあなたが優しい言葉かけてさしあげた?
いたわりの気持ちや感謝の気持ちを
言葉にして相手に伝えた?
慈悲の気持ちや、許す気持ちが
二人の間で一度でも交わされた?

もしかしたら不満があっても「どうせわからない」と思って
一度も口に出さないのでは?
中には冷静さを欠いてただ怒鳴り散らした人もいるでしょうね。
「許せねえ」なんて捨て台詞まで吐いてね。

そうなると心の中に憎しみの根を張ったのは
あなた御自身ということになるでしょ。

杉の木と同じよね。
雑草も同じよね。抜いたってほんとよく出てくるよ。
根競べだよね。抜かないとすごいよ。
一度実家がお化け屋敷みたいになって慌てたことあったよ。

まあ話が横道それたけど、結局雑草とおんなじで、
一度植えつけた根はあなたが自分の手で抜かない限り
誰も抜いてくれないってこと。

根っこは恐ろしいほどのスピードで
心の中を這って行くよ。
ここまでは理解してもらえるんじゃないかな?

問題はここからだね。
這った根はやがてあなたが「気づかないうち」に
「 深く広くあなたの心を占めて」いくわ。

そしてここが一番やっかいなんだよね。
這った根はまったく思いがけないとき
まったく別な場所(別な人の前)で
ひょっこり芽をだしたりするの。

簡単に言うと許せない人がこの世に一人いることは
この世の人がすべて許せないということと同義語なのよ。
寛容になれないの。受け入れられないの。
愛せないの。

人や物事すべていびつな形でしか受け入れないの。
偏ったものの見方や、たとえ誰かを愛せたとしても
「たった一人この人だけしか信じられない」とかね。
そうなると手に負えなくなる。
人は裏切るものだとか
この世は不条理に満ちていて
たとえ何かが起こらなくても
だまっていてもやがて寿命がくれば
自分だってこの世を去るのだと

最初からわかっていれば、
(ここで言う、わかっているというのは
頭で理解するのではなく心で受け入れるということね)
常日頃から心しておけば
多少のことでも動じないし、
受け入れるだけの度胸や度量が形成されていくのに
残念なことにその形成する時間を
皆さんあまりにも作らなさ過ぎ。

信じている対象が限られた人やものだけになっている
「狭い人間関係」や「自己流の 世界観」だとちょっとの事で、
人が聞いたら「 そんな些細なこと」と笑いそうなことも
「裏切られた」とか「もう生きていけない」など
それこそ他人を巻き込んで大騒ぎ。

「 自分ひとりで、自分自身の問題」と
己との心の対峙が出来ない、処理できない。
だから慌てる、泣き喚く。

「自分ひとりで、自分自身の問題」と
生んでくれた親に思いをはせることなく
幾千万の御先祖様との命のつながりも鑑みることなく
さもひとりでこの世に生まれたみたいな
考えになるから命そのものまで粗末にする。

だから他人を殺めたり、実際殺めなくても
「人を憎むのは心の中でその人を殺めているのと同じ」なのよ。
そして時には自分の命さえ平気で捨て去れる。
全部同罪よ。だってどれも心が痛くなるでしょ。痛いでしょ。

この世にはたくさんの人がいて
皆お互い様で生きている。
お互い様で生きているから
お天道様に恥ずかしくないように、
自分自身を大切に律して
お蔭様でと他人様に感謝すれば
またお互い様で心づかいが戻ってくる。
戻ってくるから
お互い様と素直に頭を下げられる。
ありがたいと感謝できる。
お互い様だから他人様のために
何かしたいと優しくなれる。
行動に移すことができる。

ああこの世は周り回っているんだね。
だから人の心も回りまわって
やがて自分に帰ってくるんだね。

人に頼って感謝するは
もちろん大事だけれど
時には頼りにされて
自分の力を出すがいい。

仲間は大切だけれど
己の心に問いかける
ひとり時間も大切にするがいい。

そんなこと教えてくれる
自分以外はすべて師に感謝。

今日も読んでくださってありがとう。

youko