皆様こんにちは
すっかりご無沙汰しておりました。
思えば前回のブログはまだ暑い夏の盛りでございました。
あれから早いもので、3ヶ月あまりの月日がたち、
晩秋の季節になって参りました。
皆様方におかれましてはお変わりなきことを願ってやみません。
人生は思いがけないことの連続である。
といつも私は思ってまいりましたがまたしても今回も
私のシナリオにはない様々な「プレゼント」が
次から次へと天から舞い降りてまいりました。
8月6日母が入院し、多少痴呆の症状があるということで
要介護3という認定を受けました。
おそらく若い頃の私なら「親が痴呆なんて」とショックで
立ち上がれなかったと思うのですが、
あーこれぞ年取ることは素晴らしきかなというか
恐ろしきかなというべきか。
この年(48歳)になりますと太っ腹になってくるのか
体はあいかわらず変わらぬ42キロながら
(というかただ貧弱なだけなんだけど)
心はメタボリックになってきたのか?
肝が据わってきたならこれ幸い。
母の痴呆状態を楽しく見守れるまでに成長させていただきました。
これもひとえに主人や、こうして私のつたないブログを読んでくださる
皆様方のお陰と感謝する次第でございます。
「母ちゃん生年月日は?」「大正15年2月28日」
「当りー。さすが母ちゃん。それじゃあ年は?」
「28歳」(ほんとうは82歳)
ヒぇーいくらなんでもそれはないんと違うか?おかん(なぜか関西弁)
と思いつつも
「いやーあ、28歳。そりゃあいいねぇ。私も28歳に戻りたいよーん」
傑作だったのはこれ。思わずふきだしちゃったわよ。
入院直後の会話。「母ちゃん。ここどこだか解る?」
「解るよ」「どーこだ?」「警察に決まってるよ」
(エーッ何でそうなるの?)と言いたいところをググッと我慢?し
「へー母ちゃん、ここ警察なの?母ちゃん何悪いことしたん?」(またしても関西弁)
「してないよ」「じゃあどうして警察なの?教えてくれる?」
「だって縛られてるもん」
あー納得。ある意味当っているといえば当っているのである。
なんせ入院直後の母は、おしめで寝たきり状態。
自分の足で歩いてトイレに行くなど当時は夢のまた夢状態だったのである。
ところがそこは痴呆の悲しさよ。自分は歩けると思っているので
ベットから起き上がろうとしちゃうわけ。
それで動かないようにベルトでベットに固定されるんだけれど
それが本人にすると「警察でお縄になってる」ってことになっちゃうのよね。
でも痴呆ってホント不思議。母の頭の中をめぐってみたい気分。
生年月日どころか、住所も電話番号もバッチリなのに
そうそう亡くなった父の生年月日も当っているのに
生んだ娘の生年月日は「忘れちゃった」とくるんだから
正直ガクっとくるよね。
でも、「もうこれで寝たきりになっちゃうのか」と覚悟を決めたこともあったけど
いやーどうしてどうして「婆さんパワー」?はすごい。
2ヶ月の入院生活で、リハビリしたらオシメは卒業で紙パンツにまで成長?したし
手すりにつかまってだけれど歩けるまでになったし、
なんといっても一番嬉しいのは、自分の足でトイレに行って
用を足してくれること。
これは本当にありがたくてありがたくて
思わず「母ちゃんは娘孝行だね」と感謝の言葉が今でも日に何度も出てきちゃう。
足が速くて、運動会のパン食い競争ではいつも一等だった。
若い頃社交ダンスを習っていた。
そろばんは級持ちの私など弾き飛ばす勢いで、暗算など
「ハハンがハン?」てなもんだった。(お手のものってことね)
習字だって段持ちの私など鼻で「ふふん」と笑われそうなほど達筆だった。
ミシン掛けさえ満足に出来ず泣きそうな私を尻目に
お祭りに間に合うようにと、たった2日で浴衣を縫い上げてくれたっけ。
「あんたみたいに栄養士の免許持ってなくたって私は負けないよ」と
かつて言わしめた?母の手料理はまさに「ハハー」?と
ひれ伏すしかないほどの出来栄えだった。
私などとても太刀打ちできぬほど強くてエネルギッシュな母だった。
悲しいけれど、もうどれもこれも過去の母の姿になってしまった。
切ないけれど、どれもこれも認めなくてはならない母の現実。
それら全てをしっかり受け止めなくてはならなくなった。
無くした物を数えたらそれこそ山のような思い出に涙が溢れそうだけど
残された物をしっかり見つめ直したらある日そこに輝きがあることに気がついた。
トイレまで行ける力は残っていたじゃない。
震える文字でも自分の名前書けるじゃない。
先生の話、ちゃんと理解して言葉少なくても受け答えできるじゃない。
お見舞いに来てくれた人の顔や名前ちゃんと覚えていたじゃない。
料理はもうさんざ作ってくれたんだからいいよ。
柿の皮上手に剥いてるその包丁さばき?だけで嬉しいよ。
浴衣なんてもう縫えなくたっていいよ。雑巾喜んで縫ってくれるじゃない。
母ちゃんそれで私は十分幸せだよ。
そして今回最大のプレゼントを私は神様からいただいた。
それは思いがけないプレゼントだった。
「これからお母さんどうされますか?このままだと退院されても
もうお一人での生活は無理ですよ。老人ホームへ行かれるしかありませんね」
先生に言われたときは、「ああやっぱりそうだろうな」と納得せざる得なかった。
どうしよう。父が亡くなって5年の歳月が流れていた。
今まで何度か母に東京で私達と暮らさないかと打診したが、
母は頑として首を縦に振らなかった。
「ここ(横浜)がいい。だって皆(友達のこと)がいるから」
公園の、池のほとりのベンチで淋しそうだったが、
はっきりと私にそう言った母の言葉が私の頭の中で甦る。
あれは今年の5月、あれからそんなには経っていない。
母の気持ちは今更聞くまでもあるまい。
聞いたところで同じ答えが返ってくるに決まっている。
どうしよう。ホームへ入れたくない。
働きながらも必死で自分の母(すなわち私の祖母)を
自宅で最後まで見取った母の姿を、見て育った私には
どうしても母をホームに入れる気持ちには120パーセントなれなかった。
主人が東京で仕事をしているのに、一緒に横浜へ来てなんて
そんな我がまま許されるはずないじゃない。
まして主人一人置いて、私が横浜の実家で暮らすなど
それこそ私の勝手な言い分聞いてくれるわけないじゃない。
じゃあどうしたらいいの?
他に何か良い方法があるの?
入院からすでに一ヶ月近い月日が流れていた。
答えが出ないまま、私は重い気持ちを抱いたまま
連日30度を越す暑さの中、
京浜急行で1時間以上の道のりを
毎日毎日母が待つ病院へ通い詰めた。
暑さと疲れが祟ったのか?
9月に入ってすぐに私は倒れてしまった。
明らかに疲労だった。それも心の。
金魚の酸欠状態のような息苦しさの中で私は
心の息苦しさにも、もがきあがいている自分に気付いた。
「そうか。私は、これから先の不安ばかりを勝手に心の中で作り上げ
そのプレシャ―に自分自身を完全に押しつぶしていたのだ」と。
病院のベットの上で点滴を受けた私を待っていたのは、
主人の泣きたいぐらい優しい言葉だった。
「本当なら自分も横浜へ行ってあげたいが、仕事の関係で東京から
離れられない。勝手を言って本当に申し訳ないが
君一人だけで悪いが横浜へ行って、実家でお母さんを看てあげなさい。
僕のことなら心配しないで大丈夫だ。
退院したらすぐにお母さんと一緒に暮らしなさい」
なんと主人は私の心をしっかり見ていてくれたのだ。
どこが悪いもんですか。勝手なもんですか。
勝手言っているのは私なのだ。
もうこれ以上ありがたい言葉はなかった。
感謝の一言だった。
「ありがとう。こっちこそ一人で横浜へ行ってごめんなさい」
私はそのとき、この気持ちは一生持ち続けなくてはいけないと
心に誓った。「絶対忘れてはいけない」と天と約束を交わした。
この世には親を看たくても、それぞれの事情を抱えて
看てあげられない人がごまんといるはずだ。
いや、主人のようにどんなに親の顔が見たくても、
どんなに親の声を聞きたいと願っても
もうこの世に親がいない人が五万どころか大勢いるのだ。
それに比べたら私はなんと幸せ者なのだろうか。
だって親が生きていてくれて、
面倒を看てあげなさいといってくれる人がいる。
かつて私が子供だった頃、親にやってもらったことが
今こうしてやってあげられるのだ。
汚れたパンツを変えたり、お尻を洗ってあげたり、
気持ちよく過ごしてもらえることに喜びを感じる生活を
かつて私の母は私と妹のために働きながらも必死でやってきたのだ。
その恩を返せる、母と同じ喜びを味わえる時間が私に訪れたのだ。
その時間を私に与えてくれたのは主人なのだ。
退院した翌日母と二人でゆっくりお茶を飲んだ時私は
改めてしみじみとその幸せをかみしめていた。
思えば私が生まれる前から勤めていた母と旅行以外たった二人きりで
自宅で昼間にお茶を飲んだことがなかったことに気が付いた。
「母ちゃん、母ちゃん働いてたからさ、
二人っきりでこの部屋(自宅の茶の間)で
こんな時間(午後3時)お茶飲んだことなかったね」
そう言った私に母ははっきりと答えた。
「ホントだね」
「神様が与えてくれたんだね」
「そうだね」
ああ、こんなおだやかで、ゆるやかな時間を
与えてくれたのは神様のしわざ以外考えられぬほど幸福な時間だった。
ああ、この時間を与えてくれた神様に感謝せずにはいられないほど
満ち足りた日々を今、今日もここに又与えてくれた
主人はかけがえのない私の大切な宝物だ。
母と主人。この天秤にはかけられない二つの宝物を私は裏切ってはならないのだ。
なぜなら宝物は天から与えられたものだから。
天との約束は自分との尊い約束だから。
だから私は今日も母のお尻を鼻歌交じりで洗う。
だから私は今日も母のパンツを取り替える。
なぜならそれが今の私の喜び。それが今の私の幸せ。
幸せは誰かが決めるものじゃなく
あなたの心が決めるもの。
なぜ今、自分の心が苦しいのか?
その心の苦しさは本当に自分以外の者がもたらしたものなのか?
自分の心に潜んでいる、本当は一番見たくない部分に
蓋をせずしっかり対峙出来た時、あなたの心は別の光を放つ。
その光を「自由」と言うのなら私は今の困難から目をそらさず
今という時を歩いてゆこうと思う。
何故なら私はまだ本当の自由を知らないから。
何故なら私はまだ本物の困難には直面していないから。
人前で話すと頭が真っ白になってしまう。
話し方教室にはこのような悩みの方が大勢いらっしゃいます。
では、何ゆえその症状?がでるのか?
あなた自身の手で、あなた自身が一番開けたくない心の蓋を
そっと開けて、その一番奥底を見つめたとき、
おのずと答えが見つかり、あなた自身の「人生の気付き」を得ることで
あなた自身の「人生の築き」の一歩になってゆくのです。
そこに蓋をしたままだと、100億の貯金を貯めても
残高6256円の詐欺師のように「愚か者」に成り下がってしまうのです。
あがりも、震えもなんら恥ずかしいことではありません。
「私はあがり症です」と堂々と人前で話し、克服しようとする
その勇気と努力さえあれば、「愚か者の人生」など無縁なのです。
「臭いものには蓋」の人生ではいつまでたっても
あなたの人生に光りは差しません。
見栄を捨て、過去の栄光にしがみつかず
家賃280万円の麻布のマンション生活と
スッパリとケリをつける覚悟があったなら
詐欺師になる必要はなかったように、
長者番付に載る人生より、転落人生を歩まない
日々の地道な努力に「誇りと自信を持てる」
そんな「心の長者人生」を歩んでいきたいものですね。
今日も私の戯言にお付き合いいただき
ありがとうございました。
すっかり寒くなってまいりましたが
皆様どうぞお風邪など召しませぬよう
お体をお大事になさってくださいませ。
それではごきげんよう。
youko