スピーチの題材はそこかしこ 生かされていることへ感謝忘れるべからず

「おめでとう。宇宙からの生還だね」
国立癌センターから無傷?で
入院先の病院へ帰ってきた
私に主治医の先生は笑顔で言葉をかけて下さった。

今から2年前の夏。
私は原因の解らぬ肺炎に侵され
病床に伏していた。

あれは隅田川花火大会の夜だった。
その日、話し方教室でスピーチコンテストを終えた私は
体が異様に疲れていることに気が付いた。

夏風邪でもひいたかな。
初めはそんな軽い気持ちだった。

やがて始まった花火大会。
大輪の花火を、私は椅子から立ち上がる気力も無く
ただぼんやりと見つめていた。

異変は花火大会が終わらぬうちに
私の体を襲ってきた。

異様な寒気に声の擦れ。
私は早々と花火大会を切り上げ部屋に戻った。

しかし私を待っていたのは
寒気や声の擦れどころではなかった。

私はその晩から一睡も眠れない激しい咳にみまわれた。
夜になるのが怖かった。

毎夜時計が夜10時を過ぎると、待ち構えていたように
堰を切ったように絶え間なく私の体に襲い掛かった。

一秒として止まらず、体を横にすることさえ許してくれなかった。
水を口にした時だけが、唯一訪れる安息の時間だった。

悪魔だと思った。
真夜中の部屋で、私は布団の上に座り込み
呪われたようなわが身の四肢を両腕で押さえ込み
体を丸めてただひたすら朝が来るのを待っていた。

病院でもらった薬は一向に効きめを現してはくれなかった。
熱はすでに1週間近く下がらず
体の節々をじわじわ痛めつけていた。

私の体は悲鳴をあげていた。
何度限界だと思ったか。
何度夢であってほしいと願ったか。

私は助けを求めた。私はすがった。
夜の空に向かって、神々しい月に向かって
ひたすら手を合わせた。
白々あける夜明けまで
それは毎晩儀式のように続いた。

「誰でもいい。お願いです。助けて下さい。
咳を止めてください。一刻でも早く」
何でもいい。何かに誰かにすがりつきたかった。
それほど私の心と体は衰弱しきっていた。

「白血球と肝臓が尋常でない数値を示しています。
即刻入院して下さい」

詳しい精密検査の結果、わたしの血液は
通常の7倍から5倍という
先生も驚きの数値を次々に指していた。
あの咳と戦い続けてすでに1週間が経っていた。

何より先生を驚かせたのは肺を映したレントゲンだった。
10個にも及ぶ影が
素人目にもはっきりわかるほど映し出されていた。

「何だ。これは」先生は絶句した。
タンポポの綿毛状の様な
フワフワした大小の白い影が
私の両肺の中で不気味に巣くっていた。

連夜のあの咳だ。
素人の私でも検査結果を待つまでも無く
普通の体ではないのは明白だった。
私はある程度の覚悟はできていた。

「先生、どんなことも正直に話してください」
「解りました」
先生は大きくうなずいた。

私は救われたと思った。
何より結果が出たのだ。
あとは有効な治療法を先生が見つけてくれるはずだ。
先生が「救いの神」になっていた。

それから連日午前、午後そして夜間と
私は日に3回、計5時間以上の点滴を受けた。

針の跡は秋が終わりを告げる頃まで消えなかったが
紫の斑など忘れさせてくれるほど
私は入院したその日の内から
心が穏やかになってゆくのを感じていた。

私は知らなかった。
私の穏やかさとは別の場所で別の戦いがあったことなど。
入院したその晩、主人がこっそり呼び出され
「ご主人覚悟してください。肺がんの末期と思われます」
主人は一瞬、頭がパニックになったそうだ。
先生も9割、命の保証は無いと思ったそうだ。

先生は、ある疑念にも駈られたそうだ。

「東南アジアへ旅行に行っていませんか?」
パジャマに着替えていた私に所へ
先生は血相を変えてやってきた。
「いいえ」
「ご主人は?」
「いいえ」
「お知り合いでいませんか?」
「?」
「とにかく、個室に移っていただきます」
有無を言わせず、私は個室へ移された。

もしや新型インフルエンザ国内第1号患者か?と
一時はあまりのもめずらしい?影の形に
肺の専門医である先生でさえ戸惑われたそうだ。

これらは全て完治してから、二人の口から聞いた話。
でも主人は男だった。
やっぱり主人は強かった。
先生もプロだった。
最後まで平静を保ち、治療に心血を注いでくださった。

二人ともそんなことおくびにも出さなかった。
私の知らないところで、私の為に戦ってくれた人がいた。

そんな事とは露知らず、
「救いの神にお任せ」という
心境に私はすっかりなっていた。

でも結果それらが私を救った。

その頃、私のスケジュール表はビッシリと埋まっていた。
週5日話し方教室の仕事が入り、仕事が終われば横浜の
実家にとんぼがえりし、母の介護にあたった。
翌日そのまま教室へ直行し、仕事をこなした。

スピーチを考える場所はいつも台所や、お風呂の中だった。
特に往復の電車の中は貴重だった。
パソコンで打った下書きを広げ、ペンで書き直しを入れ、
揺れる電車の中で何度目を通したことか。

3分スピーチの原稿用紙が70枚近くになり、
頭と体が分かれてジェットコースターに
乗ったままのような日々が10ヶ月経った頃、
私の体は耐え切れなくなった。

気がかりだった母は、妹が面倒を看てくれた。
私は心おきなく治療に専念する気持ちになれた。

私はこの時とばかり普段出来なかった事をさせてもらった。
今思えば、それは夢のような贅沢な時間だった。

新聞は隅々まで目を通し、積読?だけだった本を何冊も読んだ。
旧い友人には長い手紙を書き綴り、
ラジオから流れてくるクラシック音楽に
耳を澄ませるひと時も楽しかった。

夜はライトアップに照らされる浅草寺を眺めながら
主人が家からもって来てくれた
温かいお茶を飲む時間がお気に入りの時間だった。

とりわけ浅草寺の屋根に月がかかる情景は美しかった。
私は「ホテル浅草寺」と勝手に?名前をつけて
一人悦に浸っていた。

私は忘れていた。
人生には時にこんな時間が必要なことを。

こんな穏やかな時間こそが
人に深い感慨や思索の心を
与えてくれるのではないかとも思った。

お盆の頃、私は築地にある国立癌センターへ検査に行った。
咳こそすっかり止まっていたが、
肺の影は1つも消えてはいなかった。

そこでも先生にはっきり言われた。
「ガンの疑いがあります。一週間後、組織を取って検査をします」

それでも私は相変わらず能天気?で楽しい一週間を過ごした。

そして組織検査の日がやってきた。

「先生、午後の検査中止です」
レントゲン技師が、朝一番に撮った写真を手に診察室に入ってきた。

「嘘だろ」先生はしばらく呆然とレントゲン写真を見つめた後、
満面の笑みで私達夫婦に言葉をかけてくださった。

「おめでとう。もう完全に治っていますよ。ほらすっかり影が消えている。
正直90パーセント癌末期と思っていました。でも本当によかったですね」

そしてこんな言葉をつぶやいた。
「一年に一人位、こういう奇跡みたいな患者さんがいるんですよ」

主人が聞いた。
「そんなことあるんですか?」
「悲しいけれど、紹介状を持ってきた患者さんは、
ほぼ100パーセント近くが癌患者さんなんです。
医者をやっていて、こんなこと言うの変なのですが
それこそ一年に一度位、奥さんみたいに不思議な人がいるんです」
「そうすると家の奥さんがその一年に一人なんですか?」
「そうです」

私はだまりこくってしまった。
待合室は患者であふれかえっていた。
あの人たち全てが癌なのか?
それなのに私は一年に一人の奇跡だと言う。
嬉しかった。
嬉しかったが、手放しで喜ぶ気持ちには
どうしてもなれなかった。

主人も同じ気持ちだと言うことがすぐにわかった。
「今まだ8月なのに」
それだけ言うと私の横でだまりこくってしまった。

「じゃあ、これからここへ来る人全て癌ってことなの」
申し訳ない気持ちと、怒りに似た気持ちが湧き上がった。

小さな子供が大勢はしゃいでいた。
さっき診察室へ入った人はスーツ姿だった。
勤めのついでにきたのだろう。まだ若かった。
綺麗な女の子がいたっけ。女子大生って感じだった。
あれくらいの頃、私は青春を謳歌していたのに。

「みんな癌なの?」
人生の無常を感じた。

先生は私達の気持ちを察知してくださったのだろう。
「ここは誰もいませんから、ここで大いに喜んで行って下さい。
こんな奇跡、滅多にあることじゃないですから」
再び満面の笑みを向けてくださった。

先生もよほど嬉しかったのだろう。
私達夫婦に握手を求めてきた。
診察室でお医者様と握手なんて経験は生まれて初めてだった。
心から喜んでくれているのが、その手の温かさから伝わってきた。

「ありがとうございました」
私達は心から礼を述べ、喜びをひた隠しにしたまま癌センターを後にした。

そして入院先に戻ってエレベーターのドアが開いた途端、
先生が駆け寄ってきてくださり、
私達にかけて下さった言葉が、冒頭の言葉だった。
「おめでとう。宇宙からの生還だね」

それほど私は奇跡だったのか?

生かされたなどと言う表現はおこがましいような気がする。
もし生かしていただいたとするなら
自分を大いに活かさなければ罰が当りそうな気がする。

生かしてくださったとすればそれは誰?
天なのか?仏なのか?ご先祖様が守っていてくれたのか?
そんなに良い行いなどした覚えは恥ずかしながら無い。
「人生修行し直せ」というのなら大いに納得するけれど。

目に見えないものだけが私を生かしてくれたのか?
いやそれは違うと今ならはっきりと言える。

先生はもとより看護士さんは皆、同じ女性として優しかった。
真夜中の巡回中、私の心の内を聞いて下さったあの看護士さんは
私を叱咤激励してくれたっけ。

身の上話を何人もの人から聞いた。
独身を貫いた人、離婚した人、子供はあえて産まなかった人
それぞれが看護士としての職を貫く為に
あえて決断した悲しくて、それでいて強い人生を
笑顔でさらりと話して聞かせてくれた。

私も同じ女だ。せつないほどそれぞれの身が解った。

お掃除のおばちゃんも、近所のおばちゃんのような親しみがあった。
毎日モップを手にしながら、トツトツとそれまで歩んできた道を語ってくれた。

おばちゃんも又、悲しい女の人生を背負ってはいたが、
底抜けに明るかった。
「さんざ苦労もしたけれど息子は優しいし、孫もいる。今は幸せだ。
綺麗になるから掃除の仕事が好きだ」と口癖のように言っていた。

皆が何かしらの重荷を背負っていた。
人生の何がしかの片鱗を見せながら
それぞれの職務をまっとうされていた。

辛く大変な仕事ではあったが、私には輝いて見えた。
私は入院中多くの人たちから
エネルギーを注いでいただいた。
それらは全て私の生きる力になった。

生きる力を活かし、活かされ
人は今日を生きてゆく。
生かされているのは誰のためでもなく
自分を生きていく為。
最後まで生ききってゆく為。
だから全てのことに感謝しよう。
関わった全ての人に感謝しよう。
だって私を生かしてくれたのだから。
たとえ明日への力が萎えてしまおうとも
かけがえのない明日への勇気をくれたのだから。

人は一人では弱いものだけれど、
感謝の心さえ忘れなければ
たくさんの友人に恵まれる。

前向きな心さえ忘れなければ
互いに励ましあう温かな言葉や
思いやりに溢れた会話が成り立ってゆく。

スピーチの題材はあなたが今日まで体験した
珍しい体験ばかりではない。
人と人の間で交わされた何気ない会話や、
言葉の端々にいくらでも転がっている。

スピーチの題材そこかしこ。
もう一度、生きてきた道を振り返ってみましょう。

その悲しい経験に、悲惨と思った体験に
「感謝や前向き」と言うスパイスを振りかけてみて

ほら1つスピーチ、できませんか?
ほら違う人生、見えてきませんか?

どうぞお体を大切に

読んでいただきありがとうございました。

youko