1月17日に思いを寄せて

生きていたらこの番号に連絡下さい。
皆、心配す。

電報のような文章だった。
それだけをはがき一杯に
雨で濡れても滲まぬように
黒の一番太いマジックペンで
書きなぐった。

手がブルブル震えて、
正直それだけ書くのが精一杯だった。
私は祈るような思いで、真夜中ポストへ走った。

宛先は兵庫県西宮市甲子園。
母方のいとこ一家が住む町だ。

1月17日。
阪神淡路大震災。
あの日テレビの画面は一日中、
地震で倒壊し、燃え盛る町並みを映し続けていた。

戦後国内最大級という激震に見舞われた街を
未曾有の大惨事として、テレビはその惨状を刻々と
残酷なまでにまざまざと見せつけていた。

「陽子、どうしよう。恵子とまったく連絡がとれない」
「死んでるよ。こんなじゃ、生きてっこないよ」
朝から、母はパニック状態で、
何度も何度も私のところへ電話をかけてきた。

母がパニックになるのも無理はなかった。
恵子ちゃんは私の母のたった一人の姉にあたる人の娘だった。
特に伯母(すなわち恵子ちゃんの母親)が亡くなってからは、
母は自分の子供のように「恵子、恵子」と
遠い兵庫県へお嫁に行っても、何かと気遣っていた。

その娘同様の可愛い姪が、今この寒空の中、
あの惨状の真っ只中にいるのだ。

「陽子、どうしたらいいもんかなぁ?母ちゃん、朝からパニックになってるんだ」
「リュックサック背負って、行ける所まで行くって言うんだけれど
お前、一緒に行ってやってくれるか?」

当時まだ生きていた父は一日中、「心配するな。オロオロするな。」と
あたふたする母をなだめすかし?(と言うか父の事だから怒鳴りつけたんだろうけど)
ほとほと困り果てて、夜遅くになって電話をよこした。

「私も、何回もかけているけど、まったく通じないよ」
「私だって、行けるもんなら行きたいよ。
でもこれじゃあ、今行っても私のほうがパニックになりそうだよ」

母だけではない。
私もこの日、まったく家事すらも手がつかず
ただぼんやりとテレビ画面を見つづけていた。

同じ日本で起きた出来事なのに、
まったくもって夢の中にいるような、
それでいてあまりにも生なましい現実に
いきなり放り出されような、
かと、言って何も出来ずにただオロオロする
未だかって経験した事の無い奇妙で、
それでいて心の置き所が無い
どうにも表現の仕様の無い一日を送っていた。

テレビを消せば、マンションのバルコーからは
いつもと変わりない
おだやかな東京の街明かりが広がっていた。

あの街は今ごろ、電気も点かず、真っ暗闇の中で
燃え盛る炎に任せたまま、倒壊した家屋の下では未だに
救助を待つ人がいて、助かった人々はこの凍える冬空の下で
一体どうしているのだろう?

あー、いくらテレビ見たって想像もつかないよ。
あー、一体全体どうなっちゃてるんだろう?
どうしてこんなことに、なっちゃたんだろう?

可哀想とか、そんな気持ちを超越した
よりどころの無い
むしろ怒りに近い感情に
心の持って行き場がなかった。

そして恵子ちゃん一家は?
あー、もうどうしていいのかわかんない。
どこかに向かって叫びたいような気持ちだった。

そう思うと再び私は言いようの無い思いに駈られた。
とにかく今すぐ、この瞬間に私に出来る事は何か?
考えた末の答えが、
先に記した「はがきを出す」という行動だった。

「お元気ですか?」なんてこの現実の前では綺麗過ぎてうそ臭い表現に思えた。
「皆心配していますので、ぜひとも先にご連絡ください。
それではご無事をお祈り申し上げております」などという
長々した文章はこの際まどろっこしくて、
いやむしろカッコつけ過ぎてるようで
このあまりにも過酷な現実からはかけ離れた表現に思えた。

「生きているのなら、電話してくるはずだ」
私はとにかく「生きていてくれ」と
たった一枚のはがきに願いを託した。

あれは震災2日後だったろうか?
その日の新聞は2面見開きで、
亡くなった方々のお名前がびっしりと書き込まれていた。

ただただ名前と年齢だけでぎっしりと埋まった新聞。
こんな新聞を読むのは生まれて初めてだった。

まだ生まれたばかりの赤ん坊の名前があった。
一家全滅と思われる家族名の記載もあった。

こんなに亡くなったんだ。
なんて神様はむごいことをされるんだろう。
天を恨みたかった。

この人たち一人一人が、あの瞬間まで生きていたのだ。
一人一人にまちがいなく人生があったのだ。

私はテーブルの上に広げた新聞紙に突っ伏して号泣した。
私にとっては全く見ず知らずの他人だったが、
それでも泣けて泣けて仕方が無かった。

新聞紙がびしょびしょになって
破けるなんて経験もあのときが初めてだった。

今もこうして文章を打ち込んでいると
否が応でも、あの日を思い出し、
パソコンの画面がぼやけてくるのを禁じえない。

まして恵子ちゃんから電話があった時の
私といったら、皆さんご想像いただけるだろう。

「陽子ちゃん。生きてたよぉ」
電話の向こうからすすり泣きに混じって
聞き慣れた声がしたのは、はがきを出してから5日後の晩だった。

恵子ちゃんだった。
奇跡だと思った。
しばらくの間、お互い言葉にならなかった。
「よかったね」「ありがとう」
あとは互いにその言葉を繰り返すだけだった。

「お母さんがいますぐ、そっちへ行きたいっていうんだけど」
「70歳になるおばさんに、きてもらうわけにはいかない。気持ちだけで十分」

「隣近所大勢亡くなったけど、助かった人たちで励ましあっているから心配しないで」
「今こうして生きているだけで十分」

家族も皆助かったと言う。
「息子二人も怪我はしたけれど、亡くなった人の事考えたら
こんなの怪我のうちに、はいらないわよ」
「とにかく命は無事。もうこれ以上の贅沢、何もいらない」

恵子ちゃんの言葉一つ一つが、ずしりと重みを持って私の胸に響いた。

リュックに詰めるはずで、買いに走ったレトルトカレーや、インスタントご飯、
お茶のペットボトルは全て箱に詰めて郵便局から送った。

郵便局で「キロオーバー」と、にべなく言われたが、
「水も無い、パン1つ買えない被災地に送るんです」と
局員を泣き落とし?さらに局長さんの
「この緊急時。抜くこと無いから、もっと詰めていいよ」と言う
優しい一言でさらに重量オーバーでも見事?クリアした小包はさすが?郵便局。

あの優しい局長さんでも?一週間はかかると言っていたのに
あの被災地で、よくぞ届けてくださった、
2日後には恵子ちゃんから届いたと知らせが入った。

指輪を買おうと主人に内緒でこっそり貯めていたへそくりは、
多額の寄付金からすれば、恥ずかしいほどの額で
すずめの涙にもならなかったが寄付金に化けさせて?いただいた。

ほんとあの時、指輪なんてまちがって買わなくてよかったわよ。
こんな五〇近いおばさんになった
しかもごわついた手には
ちっとも似つかわしくないもんね。
14年たってしみじみ思うわ。

そうそう、主人はあの時、
「被災地には行けないけど、俺にも何か出来る事ないか?」
「そう言えばさっきラジオで三鷹の杏林病院で、被災地に送る献血に協力して欲しいって」
「よしそれだ」って二人ですぐさま病院へ向かった。

「あっ、奥さんはやせすぎで、献血無理」とすげなく?言われ
「その代わりだんなさんから、二人分いただくわね」と
主人は容赦なく?言われ
牛乳瓶にして4本分たっぷり採られた。

それでも主人はニコニコして、
「あーこれで俺もすっきりした」と喜んでいたっけ。

大げさな事ではないけれど、
見ず知らずの人の役に何がしかの協力ができる
喜びをあのときほど二人感じる事が出来た事に
今更ながらありがたみをいただいたと
こちらこそ改めて被災地にお見舞いを申し上げると同時に
心から礼を申し上げたいと思う。

今朝は主人が仕事の用で、朝が早いため5時半に起きた。
震災14年目にして、今日初めて5時46分
その瞬間の黙祷に立ち会えることが出来た。

台所の隅で朝食の準備をしながら
静かに眼を閉じさせていただいた。

普段はあっという間の
一分間がとてつもなく長く感じられた。

どうぞ安らかにお眠りください。
私どもは、生きている限り
一生この日のことは忘れませんから。

私達に大切な事を教えて下さった
多くの御霊に改めて
哀悼の意を表したく
本日謹んでブログに記しさせていただいたこと
どうぞお許しくださいませ。

読んで下さった皆様方におかれましても
どうぞ今日と言う日の重みと
明日へ繋がる命の喜びを
感じていただけましたら、
何としても今日中に仕上げたいと?
必死でパソコンに向かった私にとって
これ以上の喜びはございません。

わー、あと15分で今日が終わっちゃう。
ひえー、朝早くからやってんのに。
(あーあ。これだから陽子さんはいい年して駄目だって言われちゃうのよね)

皆様にとって、静かで穏やかな明日が訪れる事を祈って今日の
お話は終わらせていただきます。

本日もお付き合いただきありがとうございました。

お風邪が流行っております。
どうぞ皆様、お体には十分ご自愛のほど。

それではごきげんよう。

youko

話し方は生き方?「意に添ってみよ」で清々しきスピーチを

明けましておめでとうございます。
旧年中はお世話様になりました。
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

あーまたしても松の内に言えなかった。
(どころか、今日はもう11日。鏡開きじゃない。
早く、お汁粉食べなくちゃ)
(それより陽子さん、早くブログ仕上げた方がいいと思うんですけど)

きゃー恥ずかしい。ほんと皆様ごめんなさい。

お正月と言えば様々な思い出が甦ってきます。
妹との羽根つきは毎年楽しみだったな。
父と競争した百人一首、母と揚げた凧揚げ。
あー、ほんと楽しかったぁ。
(んッ?何か反対?我が家は世間一般の
父親像と母親像が逆転していたからなぁ)
もう40年近く昔の事なのにね。昨日の事のように思い出す。

子供時代は楽しい事だらけの、お正月の思い出だけど
大人になると、ただでさえ慌しいお正月が
悲しいかな本当に慌しいだけで終わっちゃって
これと言う思い出が作れないと言うか、
記憶が薄れてきて単に出てこないのか?
どちらにしても「まったく淋しいもんだわさ」と
思うのは私だけかしらん?

それでもとても温かい思い出を味わったお正月があった。

あれは2006年の年の初めだった。
その夏、私は肺炎を患い体力がまだ完全には
回復しきってはいなかった。
そのせいか、暮れに風邪をひいたのだが、
なかなか治らず年末に休日診療に駆け込む始末。
これで治ると安心したが、甘かった。

大晦日になっても熱が下がらず、正月準備どころではなかった。
いつもなら、大掃除やおせち料理作りに余念がない?ところだが、
ただでさえ普段からさぼり癖満々?のこの私が
だるさで体が言う事を聞かず、さらにやる気無し。

それでも主人は優しかった。
「いいからゆっくり寝てなさい」
「洗濯?まかせなさい」
「おなかすいたでしょ?何か買ってきてあげるね」
私は大いに甘えさせてもらった。

が、何より主人に申し訳ないと思った。
せっかくの正月休みなのに
主人にゆっくりしてもらうどころか、
忙しい思いばかりさせて、料理だって
温かい物と言ったってコンビニのおでんや、
電子レンジでチンのお弁当ばかりで
おせち料理やお雑煮1つも作ってあげられない。

それでも文句1つ言うどころか、
夜中に私の額のタオルを変えてくれる主人には
心から感謝をした。

感謝したのは、主人だけではなかった。

それは元日の夕方だった。
「陽子さん、ごめんね。寝てた?」
マンションのお隣さんのHさんから電話がかかってきた。

「ご主人から聞いたんだけど、風邪ひいちゃったんだって」
「そうなんです」擦れ声の私に
「今ね、茶碗蒸しと、スープ作ったから持っていくね。
あっ、パジャマのまんまでいいからね」
ほどなくピンポンと音がして、Hさんが鍋ごと抱えてやってきた。

笑顔と共に、出来たての茶碗蒸しとスープが湯気を立てていた。
「ごめんなさい。こんなかっこで」
「いいの。いいの。それよりこれ食べて」
「うわー。嬉しい」私は飛び上がらんばかりだった。
「お料理作れないでしょ?風邪引いたときは温かい物がいいから」
「そうなの。冷蔵庫の残り物でお正月過ごしているの」
「風邪引いたときは、無理して台所なんか立っちゃだめよ」
「ありがとうございます。遠慮なくいただきます」

私は涙が出そうだった。

温かいゆうげだった。
主人と二人、心からホカホカした。

「おいしいね」「ほんとだね」
「Hさんて料理の天才だね」「私もそう思う」
「このスープ豪華版だね。ふかひれだよ」
「ちんげん菜と卵で彩りも抜群だね」

「茶碗蒸しだってうまーい」「ほんとっ」
「ぎんなん入りで嬉しいなぁ」
「あったかいね」「うん、心まであったまるね」
「あーおいしい」「あー幸せ」

ひさしぶりに心から会話が弾んだ夕食だった。
それもこれもみな、Hさんのお陰だった。

なんて優しい人なんだろう。
思えば肺炎で入院し、面会が許された時
一番に飛んできてくれたのはHさんだった。

その時ふと、私は思った。
私が逆の立場だったら同じことをしただろうか?と

いくら親しくさせていただいている間柄とは言え、
のんびりしたい正月休みの
しかも元日の晩に、わざわざお隣さんのために
忙しい時間を割いて、台所に立ち煮炊きをする事など
私だったら果たしてするだろうか?

茶碗蒸しとスープの鍋を抱えて
それも決して押し付けがましくなく
それでいてさりげなく、
温かい思いやりのある言葉を
掛けてあげることなど出来るだろうか?

その時、私は自分の胸に問うてみた。
答えは恥ずかしながら、自分の事で精一杯で
考えすら及ばないだろうと言うのが正直なところだった。

ああなんて自分は情の薄い
情けない人間なんだろうか。

私は嬉しい反面、自分の愚かさに気付き
おいしさと共に苦味も味わっていた。

「かけた情けは忘れても
忘れちゃいけない人の恩」
昔、ばあちゃんがこんな事よく言っていたよなぁ。

福島弁のばあちゃん風に言えば、
(ここからは東北弁で読んでください)
「人様に親切にしてあげっことは、人としてあたりめぇだ。
それを「してあげた」なんて、人様に自慢なんかすっでねえ。
まして、「してあげたのにあの人は何も返してくれねぇ」とか
間違ってもそったら恥ずかしいことゆう(言う)でねぇぞ」
「うん、わかった」

「それよりどんなちっちぇえ(小さな)事だって
人様さぁかけてもらった恩は忘れちゃならねぇ。
それこそ恥ってもんだぁ」
「いいかっ、陽子」なんて念押しまでされたのなぁ。

してあげた事は年のせいも手伝って、
この頃すぐに忘れちゃうんだけれど
こまったことに同じくらい人様に
していただいた事まで忘れちゃうのよね。

あっ、もっとも主人と喧嘩した事は、
不思議な事に1つも忘れてなくて
今でも事あるごとに、「あの時はさぁ」
なんて持ち出すもんだから主人はおびえて?日々過ごす始末。
ああなんてかわいそう?なうちのだんな様。

これもやっぱり私の欲深さからくるんだろうね。
自分が喧嘩の種を蒔いた事なんかすっかり忘れて
覚えているのは喧嘩して悔し泣きしたことばっかり。

それも10年以上の昔の事、鮮やかに覚えているようじゃ、
いくらその時、自分から「ごめんなさい」ってしおらしく?謝っても
ちっとも可愛い奥様?(ッてことにしておいてよ)じゃないわよね。
あーなんか主人にご同情?申し上げちゃうわ。

ましてや、自分から折れもしないどころか、
ネチネチ言われるのも聞かされる方は
たまったもんじゃないだろうし、
言わないまでも根に持って暮らすのは、
何より聞かされる身よりも、当の本人が苦しいわよね。

暮れの合同授業で、今回40名ほどが参加して
大スピーチ大会が行われました。
今回も大いに盛り上げていただき、本当にありがとうございました。
皆様と共に楽しい時間を過ごせた事、とても幸せに感じました。

その中で、今回印象に残ったスピーチをされた
生徒さんがいらしたので
ここでご紹介させていただきますね。

課題は「今年の私の重大事件」
お一人の女性がね、喧嘩をした相手に自分から謝られた
お話をされたのだけれど、実にさわやかで、清々しい
笑顔でお話されたの。

心のわだかまりが全て洗い流された人の
笑顔はなんて美しいのだろうと私は感動を覚えた。

スピーチはたった2分だけれど
彼女の思いに馳せてみれば、
喧嘩したその日から、謝るまでの
長い時間、どれほど彼女が苦しみ、悩んだか。

そしてついに意を決するその時までの
様々な心模様が、たとえ全て言いきれずとも
彼女の言葉の端々から、滴のように流れ落ち
私の心に熱いものがこみあげてきた。

人に頭を下げる事の難しさ。
自身が傷つきながらも、
傷つけた人への思いをめぐらす
「意に添うてみよ」
すなわち「相手の立場に立って物事を考える」
そこへ至るまでの苦悩と葛藤。

でも残念ながら多くの人がここで挫折するのよ。
でも本当の人間力を試されるのはここから。
ここからが本当の「自分との勝負」だと私は思う。
「ごめんなさい」の6文字がどれほど重たくて
面と向かって口にすることの勇気と気恥ずかしさ。

「心を込めて」「真正面から」謝罪した経験のある人なら
手にとるようにお解りいただけるだろう。
「己の否を認め」「涙と共に」頭を下げた経験のある人なら
その痛みまでもが、透けるようにお解りいただけるだろう。

立派な人だと私は心から拍手を送った。

彼女は体感したはずだ。
人が生きてゆく上で何が大切かという事を。

彼女には伝わったはずだ。
ハロー話し方教室が、何を最終的に皆に求めているのかを。

ハロー話し方教室では
「先手の挨拶、ほめる、感謝」を課題に掲げ
そしてこれらを実際やっていただいて、
その結果をスピーチしていただく授業を行っている。
でも本当はそれだけじゃない、人として生きてゆく上で、
もっともっと大切な事を
皆さんに感じていただきたい。学んでいただきたい。

そして何よりその感じた心を日常生活の中で
大いに生かしていただき
より豊かな人生を歩んでいただきたい。

それがハロー話し方教室の願いなのです。

最後になりましたが、年末の忘年会には
残念ながら私は出席出来ませんでしたが、
ステキな花束や、心のこもった寄せ書きをいただき
本当にありがとうございました。
この場をお借りして厚く御礼申し上げます。

どうぞ今年も皆様にとって実り多き一年でありますよう
祈念して今日のお話は終わらせていただきます

念頭から長々おつきあいいただき本日もありがとうございました。
まだまだ寒い日が続きます。
どうぞお体をご自愛くださいませ。

さてと、お餅焼いてお汁粉食べよっと。

それではごきげんよう。