感謝は許し。人生はすべてが学び。

「栄養士の免許返そうかなぁ?」
そんな突拍子もないこと、ぼんやり考えたのは今から4年前の夏。
以前ブログでも書かせていただいたが
重篤の肺炎で入院し、ベットで力なく横たわり
点滴の針を両腕に何本も刺されながら、窓辺に広がる、
突き抜けるような空を見ている時だった。

結婚してとっくの昔に、栄養士の職からは離れていた私が
本気とも、さりとてまったく冗談でもないような気持ちをいだいたのは
何故だったのか?

「こんないい加減な食生活していたら、いつか必ず病気になるだろうな」
主人の仕事を手伝いながら、あまりの忙しさに
それまでの食生活が一変し始めた日から、漠然と抱き始めた不安が
物の見事に的中したからだった。

朝は疲れてギリギリまで布団の中。
朝食は前日仕事帰りに買った、菓子パン1つに眠気覚ましのブラックコーヒー。

昼は通りすがりのチェーン店でサンドイッチをつまみながら
仕事の打ち合わせ。
傍目から見たら少しはかっこよく見えたかしら?
キャリアを重ねたウーマンよろしく銀座のオープンカフェで
この食いしん坊の私が、食欲なんかすっかり忘れて仕事に没頭していた。

仕事が終われば、表参道の
エキナカカフェにも足繁く通った。

深夜にもかかわらず、若い女子でごったがえす、おしゃれなカフェで
主人と二人浮いている?のも、気にせず(というか無視して)
キッシュやマリネやら、これまた二人には似つかわしくない
横文字料理を、チョコ、チョコとつまみながら仕事の打ち合わせ。

料理そのものは美味しかったはず。
はず?そうなのだ。
悲しいかな料理の味がまったく思い出せないのだ。
思い出せないのではない。初めから頭の中は仕事オンリーで
ゆっくり食事を味わう余裕などまったくなかったのだ。
忙しくナイフを口に運び、あわただしく呑み込んでは
でも、その口は仕事の会話へと又再び開かれるばかりだった。

最終に近い銀座線に揺られ、駅の階段を上がると
深夜1時までやっているスーパーに立ち寄り
小腹を満たすための、おにぎりや、カップ麺を買い求めた。
カゴの中は出来合いのものでたちまち一杯になった。
以前は野菜や豆腐や生魚などの食材だったのに。

家に帰ってこれらを電子レンジでチンして食して
お風呂に入れば、眠るのはいつも決まって夜中の3時すぎ。

胡瓜や茄子を買ったのはいつが最後だったかしら?
糠床をかき混ぜるのも忘れ、冷蔵庫の中でカビらせてしまった。

大根や人参の皮をむいて、コトコト煮込む時間も失くしてしまった。
母が送ってくれたじゃが芋は台所の片隅ですっかり忘れられ
芽が出過ぎて、使い物にならず泣く泣く捨て、
玉ねぎはトロリと腐り、異臭を放っていた。

頸が凝った、肩が凝ったとそのたびに太くて痛い筋肉注射でごまかし
医者で打ってもらったその足で仕事へ向かった。
そんな生活が10カ月続いたある日、私は倒れた。

「こんなハードな生活じゃ、倒れて当然よ」
入院後に看護士さんに見せた私のスケジュール表は真っ黒だった。
週5日働き、空いた時間はすべてと言っていいほど、
母の介護のため、あの頃は横浜の実家まで一時間以上かけて通い詰めていた。
深夜、横浜の実家に帰りつき、翌日再び慌ただしく仕事場へ通うこともざらだった。

看護士さんは驚きの声とともに同情とも憐みともつかぬ
表情を私に投げかけ、共に深いため息をついてくれた。
「疲れたでしょう。神様がくれた休息時間だと思ってゆっくりするといいわよ」

同情も憐みさえも優しい響きとなって
私の心の奥底でゆっくり広がってゆくのを感じたのも
あの窓辺に広がる、切り取ったような夏空を見つめている時だった。

医者でもない私が、西洋医学を否定するつもりなど毛頭なく
もちろん主治医の先生には今もって大いに感謝で
それこそ命の恩人と思っていることには間違いない。

それでも私の体を治してくれたものは
あの10種類にも及ぶ薬と毎日4時間受けた点滴以上に
窓辺からぼんやりと流れる雲を見たとりとめもない時間と、
朝までぐっすり毎晩8時間は眠ったであろう静かな時間と
3食まったく残さず、おいしくゆったり味わった全粥食と
柔らかく煮炊きされた優しい味付けの煮魚や、温かな季節の野菜食と
そして看護士さんたちの思いやりにあふれた
声かけにほかならなかったと
時間が経てば経つほどその感が深くなってゆく。

茜に染まる夕景や、轟く雷鳴の光さえ美しいと感じた。
浅草寺の塔にかかる月はさながら一枚の絵のようで
月夜の晩は窓辺に椅子を寄せ
主人が毎日、持ってきてくれた熱いほうじ茶を飲みながら
傾いてゆくその様を病人であることさえすっかり忘れ
ただただ見つめては、一人悦に浸っていた。

食事は今更ながら痛感させられた。
栄養士時代は、勤めていて病院で偉そうに食事の大切さを説いて
錦の御旗よろしくとうとうと栄養指導なんぞしていたこの私が
こともあろうに全くいい加減な食生活を続け、あげくのはてはこのざま。

これで「栄養士をしていました」なんて恥ずかしくて大きな声で人様にゃ言えやしない。
どの面下げて若い栄養士さんの栄養指導を受けるんじゃい。

そう思ったら情けなくて、冒頭の言葉と相成ったわけ。

病院食は美味しくないという人が多いけれど、
餌みたいな食事を続けていた私にとっては、胃で溶けるというより
心の中にまでじんわり浸みるような味わいがあったなぁ。

とりわけ滋味あふれる季節の野菜は、体に力強さを与えてくれるのを感じた。

茄子の煮浸し、南瓜と小豆のいとこ煮、青菜のお浸しなど何でもない
小鉢料理さえ、土から採れたものが私の中で栄養となり活力を与えてくれる。

そう大げさに言うと命のサイクル。
循環のようなものがあの時、理屈ではなく
私の体の中、まさに腑にストンと落ちていった。

「食の感謝の念」というものも理屈抜きで感じた。
「いただきます」とそれまで何万回となく出していた言葉も
自然と誰かに、何かに感謝する気持ちがフツフツと湧き上がるのを
禁じえることができなかった。
それは自分でも驚きを持って、しかしすぐに迎え受けることができ、
祈りと感謝に満ちた気持ちで毎回手を合わせてから箸をつけた。

食後も同様だった。この食べ物は病院の給食室で私に栄養指導してくれた
あの若い栄養士さんが頭をひねって献立をたて、
私の知らない調理員さんが朝早くから作り、
美しく盛り付けをして、ここまで運んでくれる人がいる。
その食材はどこかで農家の方がつくってくれた作物であり
その作物をつくるためには、朝早くに起き、畑を耕し
畑の土は雨で潤い、太陽の陽を浴びて作物は美味しく育った。

「これに感謝しなかったらそれこそ罰当たりだ」と
何の信仰心も持たぬ私が
小さな器の中のそれも野菜の一切れから
何か大切でそれでいて果てなく壮大な世界を感じた。

「ああ、すべてが繋がっているのだ。
すべてが繋がって私の命に直結していたのだ。
それらを忘れ、無視し、ぞんざいに扱い私は自分の命の源である
食生活をなんとおろそかにしていたのだろうか。なんと軽んじていたのだろうか。
作ってくれるすべての人に、ましてや水や光や大地に思いを馳せたことなど
この人生の中で考えたことがあっただろうか?」

重篤の肺炎だったが、こうして命を生きながらえることができた。
今まで何回も病気をしてきたが、父が働き、母が食べ物を作って
私に与えてくれたお陰で、そのたびに病気も治った。

いや、病気だけではない。小さかった赤ん坊の私が
すくすく育ち、手も足も大きく伸びて、筋肉がついて歩け、走れる。
お陰で山登りやハイキングに出かけられるのも、食べ物があって
それを作ってくれる人がいて、そして私は又元気に生きられる。

そうだ。又治ったら、元気になったら散歩にでよう。
この窓の下に広がる土の上を、この窓の向こう側の景色の中に
私の身を置けるよう一日も早く治そう。
外の新鮮な空気を一杯吸いに行こう。
限りなく広がる青さは、そのまま私のこれからの人生だ。

そして、母に会いにゆこう。父の墓参りも忘れずに。
「泣きそう」と言って心配かけた妹には元気な姿を
「飛んでゆく」と言ってくれた友達には礼に行こう。

すべてのものに感謝しに行こう。

靴を履いて歩くことも新鮮。
服を着て光を浴びるのもくすぐったい気分。
すべてがワクワク。みなぎる力が湧いてきた。

それは水や光が、雨や大地が、自然や作物が私の体を通して輪になった瞬間だった。
それは過去と未来が今という時間と
見えないけれど確かに一本の糸でピーンと真っ直ぐにつながった瞬間でもあった。

「私が私と繋がった」と言うべき表現がピタリと当てはまるような
そう、私の中の漂っていた浮遊感とずっとどこかで求めていた根っこが
森の土を通してこの小さな窓から、
あの大空にまさにスコーンと突き抜けて行ったのだった。
(これがほんとの生物多様性?)

当たり前のことなのに、頭では解っていたことなのに
何も解っていなかった。何も感謝してこなかった。
それであんたよく46歳までのほほんと生きてきたね。
食べ物1つにも感謝しないままよくあんた恥ずかしくもなく
栄養士なんてやっていたね。

自分自身とひたすら向き合う時間ができたのも
肺炎のお陰だったと今更ながら病気にさえ感謝したい気持ちだ。

感謝の気持ちは許しの気持ちまでももたらしてくれた。
「病気よ。ありがとう。あなたのお陰でいろんなことを学ばせてもらったわ」

咳で眠れぬ苦しさも、熱でうなされるつらさもすべて学びだったのだ。

いけない。主人に感謝するのを忘れていた。
あれから4年も経つのに。
暑い中、病室に毎日お茶を持ってきてくれたのよね。
汚れたパジャマの洗濯もしてくれたよね。
朝は一緒にご飯食べたよね。おしゃべりもたくさんしたよね。

「命の保証はありません。覚悟してください」と言われて
「頭がついていかなかった」でも私の前ではずっと笑ってくれていた。
退院後に聞かされた時は言葉も出なかったよ。
一人でずっと辛さを抱え、耐えてくれていたとは露知らず。
今更ながらありがとう。

ちょっと遅れちゃったけど11月12日あなたのお誕生日に改めて感謝。
長生きしてくれてありがとう。今日まで生きていてくれていることに感謝。
元気で働いてくれてありがとう。
おめでとう。59歳。これからも元気でね。
これからも宜しくね。