試された旅

 

 

母が亡くなって49日の法要を終えたのは3月15日だった。

「この日までは倒れてはならぬ」と自分に言い聞かせた。

すでに私の体は6年近い介護ですっかり疲れ切っていた。

それでも体に鞭打って何とか踏ん張った。

 

葬儀、お寺への挨拶、墓石の手配

役所の手続き、親戚、知人、友人への知らせ等々の

一連の流れは、事務的ではあるが

気遣いと心配りには仏事のしきたりも手伝って

相当神経をとがらせる。

正直親を亡くした寂しさなど忘れるほどだった。

ようやく一息できるのがこの49日。

 

「終わった」ホッとしたのも、束の間だった。

 

3月末の冷たい雨の降る朝、言いようのない不安が全身に襲い掛かり

居てもたってもいられない。

とにかく苦しい。胸が痛くて息をすることすらままならない。

「どうしたんだろう」

益々不安が募ってくる。

「とにかく病院へ」

 

「永い間介護ごくろうさまでした。頑張られましたね。

疲れたでしょう。しばらくゆっくり休んでください」

医師の診断は、神経すなわちストレスからくるものだった。

 

初めてお会いした内科医だったが、握りこぶしを両ひざにおいて

「ご苦労様でした」と頭を下げられたときは、大変恐縮した。

 

だが、同時に胸にこみ上げるものがあった。

母を亡くした寂しさ、切なさがじわじわ胸にあふれた。

「ありがとうございます」

先生に丁寧にお礼の言葉を申し上げた時、

胸の痛みは消えていた。

頭と心と体。私は再び三位一体の大切さを教えられた。

 

一度目は再三お話しさせていただいている、肺炎の時。

二度目母の介護を始めた当初。

三度目は東日本大震災時。

 

いずれも体に変調をきたし、頭の中の整理がつかず、

心が押しつぶされたような状態。

 

具体的には体が痛む、生理が止まる、発疹が出る

眼球や顔の神経がぴくぴくするなどなど

さまざまな症状が体に現れる。

 

新聞の内容は理解できても要点をまとめられなかったのは

母の介護を始めて半年後。

料理の手順が思い出せなかったのは肺炎で入院し、退院直後。

幸い一日でもとに戻ったが、パニックになりそうだった。

震災時においてはヘルメットをかぶったまま

一週間食事をしたらしい?のだが

未だにそのことは思い出せない。

父を亡くした時は、ぽっかり胸に穴が開いたようだった。

あの時は葬儀後の、3日間ほどの記憶がすっぽり抜け落ちている。

あんまり悲しいと人は記憶を失くすみたいだ。

 

心が押しつぶされたというかぽっかり穴が開いた状態の時は

これは私特有なものなのか?

何より手紙が書けないというのが経験上解った。

 

手紙すなわち文章が書けない。

書きたくない。心を表現したくない。

閉じ込めたい。誰にも知られたくない。

 

悲しみや切なさ、怒り嘆き。

さまざまな心模様が渦を巻いて

私に襲い掛かる。

 

私の心は私と格闘を始める。

それが又頭を混乱させ、体をいじめてゆく。

 

救ってくれるのは緩やかに過ぎる時間と

穏やかな空間と

大いなる自然と静かなる芸術だと

これも経験から学んだ。

 

何も難しいことはない。

 

好きな本や音楽に触れるだけで

それは素敵な鑑賞だと私は思う。

 

立派な絵を鑑賞できなくても

朝日や夕景や庭の花を愛でたり

足を止められたらそれはもう

生きている観照なのだと思う。

 

観照。すなわち物事の本質を見極める。

 

先日、神奈川県の大山国定公園にある

大山神社に登ってきた。

久しぶり実に7年ぶりの登山だった。

「病み上がりで大丈夫か」

不安はあったがとにかくトライだ。

だめならだめでいい。

行けるところまで行ければそれで良し。

そんな軽い気持ちで主人と二人で家を出た。

 

小雨模様のあいにくの天気でガスが深くなり

頂上一歩手前で

引き返しを余儀なくされたが

歩いてる道中はとても楽しいものだった。

 

息が上がり、汗まみれになったが

この根性なしの私が

「もうだめ」と思わなかったのが摩訶不思議。

とにかく一歩また一歩と

足が軽やかに進んでくれたことは

私にとって大きな成果だった。

 

「頑張れた」麓の温泉の湯にどっぷりつかった私は

安堵と自信をもその滔々と湛えた湯船に浸し悦に入った。

 

最初から何も期待せず山に登ったが、自分自身を取り戻し

自身を試される山登りだったと

下山後、神社の鳥居で頭を下げた時思った。

「ありがとうございました」心から言葉を発することが出来たのも

山の神様?大いなる自然の神様?の御蔭かな。

そんなことさえ思える旅だった。

 

本当にありがとうございました。

ありのままに生きる

「バサッ」音をたてて私の足元に一冊の本が転がり落ちた。

それは今から3年前の出来事。

震災で実家が傾き、これ以上ここで母を介護することが困難になったため

思い切って、引っ越しを決めたのは、震災後わずか一か月足らず。

6月末の引っ越しに向けて片づけを兼ねて

その日も私は荷物整理に追われていた。

大方の荷物を段ボールに詰め,あとはリサイクルショップ等の

引き取りを待つばかりだった。

八畳の間にデンと鎮座ましましていた箪笥もその一つだった。

「マンション住まいで持っていけないもんね」

結婚前のバブル期に大金はたいて買ったものだったが

今の私にはすでに無用の長物になってしまった。

「残念だけど、いたしかたないよね。第一地震で倒れでもしたら

それこそ本末転倒だわよ」

「でも長い間、役にたってくれてありがとう」

心の中でつぶやいた。

扉の中はすでに空っぽだったが、

「まさか?箪笥の上、何も無いよね?」

不意にそう思って、つま先立ちで手を伸ばした。

その時、足元に落ちてきたのがその本だった。

「何?この本?」

見覚えがなかった。

本のタイトルは「ありのまま」

京都法然院のご住職が書かれた本だった。

「母ちゃんが買ったのかな?」

ペラペラっとめくると

「あっ」思わず声をあげてしまった。

本の中ほどのページの写真集に見覚えがあったからだった。

静かな緑深いお寺のたたずまい。

苔むした石の小さなくぼみに浮かぶ蓮の花。

ご住職の袈裟の後ろ姿を見た時は「間違いない。この本買ったのは私だ」

そうつぶやく他なかった。

でもまてよ。いつ買ったんだろう?

まだ思い出せなかった。

初版が2006年。二刷が2007年か。

この年は、私は重篤の肺炎を患って入院した年だ。

翌年なら、母の様態が怪しくなり始め横浜の実家に通う回数が増え始めた時。

いずれにしても、穏やかな日常からはかけ離れた生活が始まった頃だ。

うーん?でもまだ思いだせない。

表題の横の小さな文字は「丁寧に暮らす、楽に生きる」と書いてある。

丁寧な暮らしなどしたことがあっただろうか?

憧れこそすれ、日々の暮らしは慌ただしく、性格は何より飽きっぽい。

瞬発力はあっても、持続力が無いことだけは当の昔に悟って?いる。

「本屋に並んだ背表紙の言葉そのものに引かれて買ったのかしら?」

 

帯カバーには「明日もなんだか大丈夫という気持ちになる。

疲れが静かに消えていく」と書かれていた。

今まさにこの言葉が沁みてゆく。

思わず片付けの忙しさも忘れそう。

時間の流れがそこだけゆっくり回っている感がした。

 

それにしても1500円も払って買った本の中身が全く思い出せないなんて。

嫌だ。私呆けたのかしら?母ちゃんは80過ぎて呆けたからまだいいけど

50歳になったばかりの私が今から呆けてどうする?

いくらなんでも早すぎんじゃない。

いや待てよ。買っただけで読んでないのかも。

うん、それなら納得がいくよな。

 

さらに本文を読み進めてみた。

其処には日々の生活の何気ない一コマに対する

意識の高さ、美意識とでも言おうか

仏の教えだから、さしずめ説教なのだが

嫌みなく、当たり前なのに、いや当たり前だからこそ

日々忘れてしまった(埋もれてしまった)

どうでもいいようなものになってしまった事柄(挨拶、掃除、食事作法など)

に対する感謝の念が綴られていた。

 

時間が無かったので、その日は最後のページに進んでしまったが、

思い通りにはならなくても自分なりにやれることをやっていけばよいのですね。

「信じるこころ」があれば今この人生があるのです。と結んであった。

 

そこでようやく私は思い出した。母が入院した2008年の暑い夏。

毎日、毎日病室に通い、体だけでなく「お母さん、もうお一人では暮らせませんよ」

しっかり者の母が痴呆を患ってしまったショックと

それを受け入れならざる得ない心の葛藤。

要介護3の認定を受けた母を自宅で看ようと決心しながらも

退院後どんな生活が待ち受けているのか?

不安ばかりが先行して、それでも容赦なく日々は過ぎてゆく。

 

真夏の暑さも手伝って、一日も欠かさず通い続けた私の体はすぐに悲鳴を上げた。

母のベットの横で点滴を受けた日もあった。

 

きっとこの本の文章ではなく、先の写真のページに心が奪われたに違いない。

そう思ったのは母が亡くなったのちこの本を再び手に取った時だった。

疲れていたのは体だけではなかった。

何よりも心が疲れていたのだ。

本を買ったことさえ忘れてしまうほどに

あの頃の私は心が果てていたのだ。

 

文章など読まず、この本のタイトルと

深淵の緑と光に揺らめく水の文様に

私はただただ癒されたかったに違いない。

 

ありのままは母のありのままを受け入れなければと

必死でもがいたあの頃の私の心そのものだった。

 

母のありのままを受け入れるには私が

ありのままでいなければいけないと

試されていると感じた時でもあった。

 

隠せない。医者や看護士さんにはもちろんのこと、

病室の人々やその家族。

見舞いの来てくれる母の友人、知人、親戚そして私の友人にも。

もうすぐ帰る実家のご近所の人々。

隠さない。皆に知ってもらおう。

母の様態はもちろん私と母の介護生活のすべてを。

 

そう思った日から心が軽くなった。

何でも包み隠さず話せるようになった。

「陽子ちゃん、お母さんの具合どう?」

「うん、自分からは話せないけど理解力はある」

「ご飯はどう?」「私が食べされるけど残さすに食べてくれるの」

「それはよかった」「そうなの。ありがたいの」

私が明るくなれば、母の様態も安定した。

リハビリも「楽しいよ」と進んでやってくれた。

 

痴呆は治らなくても、悪化するスピードは緩やかだった。

次第に私も「私自身の体の声」が聴こえるようになり

悪化する前に体を休ませることを覚えた。

 

それは母の体に対しても同様だった。

自分の心の余裕が母の介護への余裕になっていた。

(実際はアップアップだったが、皆に助けてもらわなければ

もっと悲惨であったことは間違いない)

 

母を亡くして半年。もうすぐ新盆になる。

母はいろんなことを残していってくれた。

改めて母に感謝するとともに助けて下さった全ての方に感謝だ。

 

ありのままでという歌が巷で流行っている。

いかにこの世で生きるのが息苦しいのか。

ヒットするのはその反転であろうと

私は自分の経験から推測する。

 

貴重で尊い経験をさせてもらった。

今はそれこそありのまま生かさせていただいている。

 

隣国からミサイルが飛び、大陸との関係も甚だ危うく

国内では60年ぶりの大転換で

不穏な空気が漂っているが

一人一人がありのままに生きられることを

私はただただ願うばかりだ。

 

皆様に幸あれ。ごきげんよう。