約束の日

こんにちは。お変わりありませんか?

早いものであの大震災からもう5年になるのですね。

3月11日を思うとき

大きな揺れや津波はもちろんですが、

原発が爆発した時の凍り付くような恐怖の瞬間がまざまざと蘇ってきます。

震災時、介護していた

福島生まれの母には最期まで福島の惨状は伝えず、皆で嘘を突き通した。

母は今頃あの世で祖母と美しく清らかだった

田舎の風景だけを眺めているに違いない。

その母が亡くなって三回忌も過ぎ、私が横浜を離れてまもなく一年が経とうとしている。

母を介護した日々でさえ、もう夢の中で吹く春の風の様になってしまった。

新しい土地に馴れるために、

趣味で始めた農作業だが、私の不器用さが邪魔をして10か月たっても未だ悪戦苦闘中。

悪戦苦闘が幸い?なのか、はたまた災いか?

母を亡くした心の痛みまで薄れてしまう始末。

命日こそ忘れていないが、毎朝拝むのも忘れて畑に慌てて出で行く昨今。

「ちょっとあんた、いくら死んだからって親を粗末に扱って」と

あの世から母の鶴の一声ならぬ虎の遠吠えが聴こえそう

(ちなみに母は虎の中でも、最強と言われる五黄の虎年生まれ)

不器用さ半分、母の祟り?(呪い)半分で

上達するどころかどころか下手さ加減だけがヒートアップ。

ここに生来のドジが加われば、さあ私に怖いものなし。

日々お笑いモードだけが加速してゆく。

草むしりすれば鎌の持ち方が「まちごうとるで」

どれが雑草か植えた野菜か区別がつかず、

出始めた野菜まで丁寧に刈り取り、黙っていればバレずにすむものを

思わず「あーっ」と畑中に響く声をあげ失笑をかい

「で、今度は何しいはったんや?」

鍬を持てば、「そんな腰ではあかん」「薪割の要領や」

「すみません。薪割った経験がないんです」

「なんや薪割したことあらへんのか」「はい」

「それじゃあ、上手い事できへんのもあたりまえやなあ」「すみません」

で、何をどう勘違いしたのか、ついたあだ名が「横浜のお嬢様」

(でも今どきの人で薪割の経験ってどれだけ?)

農業ド素人の主人に「鍬が上手に使えない」と愚痴ったら、

「泣き言はいわない。特訓だ。」と時間外指導を承る?も

思い切り振り上げすぎて土をバサッと頭からかぶりまるで漫画状態。

藁を縛れば力がないので、バラバラに解け皆に直してもらう羽目

「これ縛ったの、誰や?」の声に何度も

「すみません。それも私です」と終始頭を下げっぱなし。

それでも誰一人文句も言わず黙々と直してくれた。

もう泣きたい気分満載。

(ほんとは皆の方が泣きたかったはず。だってやり直し時間、1時間も費やしたんだから)

天地返しでは、あまりの土の重さに天地返しならぬ私返し。

(要は何度も尻もちドン)

間引きをすれば、「うわっ、すごいこんなに大きく育ってる」

(すでに土から顔を出し、真ん丸にはなっている)

嬉しさのあまり「妹に送ろう」と、グイグイ引き抜いていたら

「聖護院かぶらは、もっと大きゅうなるで」「いやや、これ小さいやん」、

「あーれ、もったいない。まだ早すぎや」で間引きならぬドン引き。

(そもそも聖護院なんてそんな高級品、横浜じゃスーパーに売ってない。

デパートに鎮座ましまして、庶民の私の口に入る道理がない。

味も解からないのに、大きさなんかそれこそ「解からへん」グスンッ)

とまあそんなこんなで、あまりの下手くそぶりに見ていられないのだろう。

皆が「ああしたらええで。こうしたらええで」と半ばあきれながらも

毎回自分達の作業を中断しても、飛んできてくれた。

「遠慮せんといつでも聞きや」「そやで。そのためにわしらいるんやさけ」

何度失敗しても「また特訓やな」と笑いに変えてくれた。

こんな私に実に親切に根気よく指導して下さり、

お蔭さまで冬野菜はほぼ完ぺきな出来栄え。

ありがとうございます。

畑1年生の私があんなに上手に出来たのは、絶対に私の力ではありません。

それだけではない。今や農作業以外の事でもお声を掛けて下さる。

「紅葉見にいかへん」とドライブに誘ってくれたり、ハイキングに行ったりと

御蔭さまで楽しい時間を過ごさせてもらっている。

時には人生のそれぞれ抱えた悩みを打ち明け合い、

背負ってきた重い過去させ、躊躇なく語り合ったり

今や旧知の友のような人も二人、三人と増えていく。

ひたすらありがたい。ただただ感謝としか言いようがない。

人生を振り返った時に忘れがたい地になろうであるこの地に、

原発の恐怖が潜んでいることを知ったのは、

配管のボルトの緩みで放射能が漏れたというニュースを耳にしたときである。

一気にあの日の記憶が蘇り、背筋が寒くなった。

大文字山を眺め、鴨川散策を楽しみ、

伏見稲荷では「やっぱりお稲荷さんでしょ」

北野天満ではほころびる梅を愛でながらも

「ここでは粟餅、買わなきゃ」

「創業400年のうどん屋さんも忘れちゃだめでしょ」で、ついでにお参り。

伝統手作業の金網を選びながら「これでトースト焼いたら、中はふわふわ。外はカリ」で、

想像してはムフフフフ。

老舗の豆腐店で買い求めた厚揚げをこの金網で焼いて

「老舗の競演やわ」と下手な京言葉で雄たけびを上げ

錦小路では美味しい京野菜の漬物のあれこれを。

出町柳では有名な大福の行列に並び、(なんと平日なのに40人待ち)

今週は御池、来週は今出川とベーカリーショップをはしごしては

「さすがパンの消費日本一。激戦地区と言われることだけある」と舌づつみを打つ。

(なんかさっきから食べ物ばっかり。これじゃあ「花より団子」ならぬ「寺より団子」ね)

一口食べては「あーん、幸せ」「あーん、感謝」

(これだけ食べたら太りそうだけど、畑作業がきつくてさらに痩せました)

原発の恐怖などすっかり忘れたどころか、

「大人の修学旅行」など銘打って浮かれていた私に

「あんた遊ぶのもいい加減にしいや」と言わんばかりに頭から冷水をあびせられた。

数日後、今度は再稼働すればけたたましい警報音が鳴り響き、稼働ストップという有様。

本当にドカンと行ったら、そのまま逝ってしまいます。

こっちの言葉で言うなら「一体、どないしてくれるんや。こっちの楽しみ奪おうて」で

それこそ「しゃれにもならへん」

日々の何気ない営みの中にこそ、

楽しみや、喜びや、可笑しみがあり、

それこそが愛しい宝であることを

いやというほど教えられたあの日。

失って初めて知った人、物、事の美しさ。

あの時間が、あの場所こそが輝きだったのだと

後で解った悔しさたるや、もうあの二の舞はごめんです。

私もこの三月で56歳になりました。

もう人生の終盤に近づきつつあります。

後は大切な人々と、残り少ない日々を

抱きしめるように、温めあいながら

笑顔で過ごしていけることを願うばかりです。

先日伊勢地方の方のお話で、

「自分はいつもお伊勢様にはお願いに行くのではなく、お礼をしに行くんですよ」と

言われた言葉を聞いて頭をガツンとやられた。

穏やかで健やかに生きられるのはあたり前ではなかった。

震災や原発で学んだはずなのに、またしても忘れそうになってゆく自分がいる。

忘れないために用意された日が3月11日であるならば

私は3月11日を約束の日と定めようと思う。

私のたわいない文章をいつも最後まで読んでくれてありがとうございます。

いつもながら感謝です。

どうぞ皆さま、ご自愛くださいませ。