鐘撞きは現代版МRIだった。

 

 

「はい、鐘の中へ入って」

「へっ?」

何が何だかわからぬまま、言われるままに

夫は脚立に登り、そのままお堂の鐘の中に頭を突っ込んだ。

(うーん、何か病院のМRIみたい)

「はい、煩悩を振り払うよ」

「えっ?」

(もしかして、鐘撞くの?)

思った瞬間、ゴーン。

(ヒヨェー)

あっけにとられて私は言葉も出ない。

夫も棒立ちのまま。

京都山科の人里離れた観音堂にいつまでも

余韻の音が鳴り響く。

 

「はい次、奥さん」

「あっ、ハイ」

覚悟もへったくれもありゃしない。

煩悩を振り払ってもらった?夫は

「感激。感激」とやたら興奮気味。

(鼓膜が破れないのか?)

下手な考えばかりが頭をよぎる。

幸い夫は倒れる様子がない。

(まあ、なんとかなるか)

兎に角、煩悩を振り払ってくれるなら

ありがたいと思う事にするか。

鐘の中で手を合わせ、目をつぶり

ありがたい、ありがたいと唱えるうちに

ゴオオオーン。

 

思ったよりずっと、澄んだ音。

遠くの谷あいからこだましてくるような音。

 

鐘は撞くもので、まさかね

中に入ってゴーンとは。

でも下手に病院行って頭の検査受けるより効き目あるかも。

特にストレスには効果抜群だと思う。

 

聞けば撞いて下さったのは、お堂の関係者でもなく、

お堂を守っている方だという。

お堂の歴史や、謂れを説明して下さった。

湧き水も「好きなだけ汲んでいきなさい」という。

奥から住職の奥様が冷たい湧き水で作ったお茶をご馳走して下さった。

 

鐘は元禄時代、京都のとある有名寺院と縁があるとか。

そんな有難いお堂なのに、一銭も取らず。

取らないばかりか、今日はじめた会った見ず知らずの私たちを

歓迎し、もてなしてくれた。

 

水を汲みの行っただけだったのに、

ひょんな出会いが生んだ縁。

私の煩悩は振り払われたかは?だが、

ありがたき行為の数々には感謝。

 

(うーん、やっぱり現代版МRIだわ)

下界は34度の酷暑。

心に涼風が吹き抜けた一日だった。

 

 

 

素晴らしき仲間に感謝

先日学生時代の友人たちと久しぶりに顔を合わせた。

 

50歳という齢も優に超えて、世間でいうおばさんの部類の

 

領域に間違いなく足を踏み入れているのだが、

 

実に心細やかで、心優しく今思い出しても涙が出そうだ。

 

思えば8年前私が闘病生活を終えた時は

 

「退院祝い」と言って、皆で顔を合わせた。

 

今回は「介護ご苦労様」と銘打って私を労う会を開いてくれた。

 

もうそれだけで心が震えるような思いがする。

 

学生時代本当に彼女たちと親交を深め、友情を温め合った。

 

何十年たってもあの時代に瞬く間にタイムスリップできる不思議な力を

 

彼女たちは私に与えてくれる。

 

感謝の気持ちを込めて彼女たちに送ったメールの一部をここに記して

 

今日は終えようと思います。

 

こんばんは。今日は本当にありがとうございました。

 

皆さんの元気なお顔に久しぶりにお会いできただけで

 

つくづく自分はなんて幸せ者なんだろうとしみじみ感じました。

 

今更ながらあの大学で巡り合えたことや

 

皆さんに助けていただいた日々にただただ感謝です。

 

何十年たっても何の裏表もなく、隠し事もなく

 

自分の心を素直に話せる人が居ることをありがたく思います。

 

学生時代は若さも手伝って今よりもっともっと我儘で自分勝手だった私を

 

今日の様にこうして受け入れてくださっていたのだと、

 

改めて皆さんの心の大きさと深さに感嘆すると同時に

 

何年たっても心優しい、皆さんに感銘するばかりです。

 

子育てや家庭生活など、きっと言うに言われぬ苦労があったと思いますが、

 

皆さんがそれぞれ御自分の知恵と力と思いやりで

 

今日まで乗り切ってこられたからこそ

 

今日のような美しい笑顔があるのだと私は思いました。

 

長々と書いてしまいましたが

 

お礼の気持ちも込めてどうしても伝えたかったので書き連ねてしまいました。

 

ごめんなさいね。

 

どうぞお体に気を付けて 又お会いできる日を楽しみにしております。

 

それでは ごめんくださいませ。

 

 

 

 

大きな奇跡と小さな奇跡

 

 

早いもので今年もあと一か月と数日を残すのみとなった。

思えば2月の大雪の日に母を亡くし、3月の彼岸明けに

それまでの介護の疲れがドッと出て、体調を崩し

医者通いを続け、夏の暑さも手伝って、

やせ細ってしまった体重がようやく

戻ったのは、秋風が吹き始めた頃だった。

 

その間、世間では土砂災害や、御嶽山の噴火など

今年も大きな災害に見舞われ、つい先日も長野で地震が発生した。

多くの家屋が倒壊し、けが人こそ出たものの

よくぞ犠牲者が一人も出なかったと思う。

それこそ奇跡だと思った。

 

日ごろから隣近所が助け合い、支えあってきた賜物だと

その後の報道を見て感じた。

 

地震と同じ日の午後、私は近所の公園で忘れ物をした。

それはお尻の敷くレジャーシート。

クルクルとコンパクトに畳める、値段は480円ぐらいだったかな。

夕方暗くなってから忘れてきたことに気が付いた。

 

どうせ安物だしもういいや。

  • 公園には土曜日でたくさんの人が来ていた。

誰か持って帰ったに違いない。

主人も「100%もうないよ」

「そうだよね」

 

ところが翌日期しせず、再び公園に散歩にいってびっくり。

なんと、昨日座ったベンチの傍の大きな石の上にそれがあるではないか。

それもご丁寧に風で飛ばないように、小さな石で押さえてある。

 

「あった」わたしは思わず大きな声で叫んでしまった。

公園には昨日同様たくさんの人が来ていた。

傍らで休んでいたご婦人が私の声に驚いて思わず振り返り

「何があったのですか?」と尋ねてきた。

「いやー昨日ここで忘れ物をしたんですが、まさかあるとは」

私は手にしたレジャーシ‐トをご婦人に見せた。

「よかったですね。親切な方で」

「ほんとありがたいです」

私は嬉しくて、主人に急いでメールをした。

「忘れ物、公園にあったよ」

 

主人は仕事から帰ってくるなり

「メールみたよ。すごいね」と私同様に喜んでくれた。

「『絶対ない』って思った」

「あたしだって同じよ。見た瞬間、奇跡だと思った」

 

私は、物が返ってきた喜びはもちろんだが、

忘れ物をした人が困っているだろうと、見ず知らずの人に思いをはせてくださり

それも風で飛ばされないようにと、心配りまでしてくださった

温かな思いやりあふれるその行為に心から感謝したい。

 

地震で自らも被災しながら、なおかつ他人を助けるという

尊い思いやりから、

公園のベンチの忘れ物にまで

ささやかな思いやりがあふれている。

 

日ごろの小さな奇跡の積み重ねが、

やがては大きな奇跡を起こすのだと

私はあの日、「日本人の心」を改めて感じた。

 

横浜も揺れて怖かったけれど、

心が豊かになるってこういうことなんだなって

かみしめるような一日だった。

 

 

 

 

 

 

 

「俺が変わる」

 

お盆の12日、実に11年ぶりに父の田舎である山梨へ主人と二人で墓参りに行ってきた。

平成15年に父が亡くなって、まもなく母の様態がおかしくなり、

そのうち母の介護生活が本格的に?始まり、

母を一人置いて遠出が出来なくなった私にとって

いつのまにか、山梨は遠い町になってしまっていたのだった。

 

その母が亡くなって、ようやく墓参りが出来た。

肩の荷がまた一つ降りたような気がする。

久しぶりに会った義理の叔母や、いとこと話が出来るひとときは

本当に心が和むひと時だった。

「陽子ちゃん、ほんとご苦労様だったね」

「陽子、よく頑張ったな」叔母やいとこの言葉は温かく

一言、一言が心に沁みてくる。

 

話しが母の介護の話しに及んだ時だった。

主人が「本当に陽子ちゃんはよくやったと思います。

傍で僕は、見ているだけでしたが、頭が下がる思いでした。

僕の事は二の次三の次どころか、四の次,五の次でしたが

僕はそれでいいと思いました」

そんな言葉をいきなり発した。

 

すかさず私は照れくささも手伝って、

「『あなたの順番は最下位』って叫んだこともあったわよね」って

切り返した。

「最下位?そりゃ敏さん参るよな」「陽子ちゃん、可笑しい」

叔母やいとこは大爆笑。

「敏さん、よく我慢したなあ」「ほんと偉いわ」

叔母やいとこは主人を褒めることしきり。

 

「いやー『最下位』って言われても、

目の前で陽子ちゃんが、お母さんのお尻拭いたりして

大奮闘している姿を見たら、納得するしかないんですよ」

「うーん、でもなかなかそうは思えんよ」(ここは山梨弁で)

「出来んこったよ」(ここも山梨言葉で)

「まあ、自分を偉そうに言うのもなんですが、

お母さんに「変われ」って言っても、もうどうしようもないし

陽子ちゃんは一生懸命介護しているし、それを「変えろ」って言っても

出来ないだろうし、それで俺、考えたんですよ。

俺が変わればいいんだって、

俺がすべて受け入れて「俺が変わる」って思ったんです」

その言葉に一同シーン。

「ほんと主人には感謝しているの」

「ほんにね」「ありがてえな」

叔母もいとこも目に涙を浮かべていた。

 

私がもしも主人の立場ならそこまで自分の心を変えることが出来ただろうか?

「私だってこんな頑張っているんだからあなたも少しは考えてよ」

そんな風に主人を責める私になってしまったかもしれない。

責めることを私に一切させなかった主人に、今更ながら感謝だ。

 

正直母を介護することは身体的にきつかった。

きつくて、きつくて何度、病院で点滴を受けただろう。

頭だっておかしくなりそうな時もあった。薬は手放せなかった。

「歯がすり減ってるよ。お母さんの病状進んでいるんだね。

あんまり無理しちゃだめだよ。自分の体も大事にしたほうがいいよ」

歯医者さんは私の口の中を見て、私の苦悩を思いやってくれた

 

そんな私の様子を心から理解してくれたのが主人と妹だった。

余計な気遣いを二人とも私には一切させなかった。

それもこれも主人や、妹が心から私を信頼し、すべてを受け入れてくれたから他ならない。

介護に何の悔いもなく、楽しかった思い出しか残っていないのは

身体的にきつくても、精神的なきつさを味あわずに済んだのは

私が一生懸命頑張ったのではなく、支えてくれた全ての人が居てくれた御蔭だと

今更ながらに思う。

私が我儘にならなくて済むように

皆が温かく見守ってくれ、助言してくれ、励ましてくれた。

13日には昔の友人がお供え物を送ってきてくれた。

15日には友人が遠く福島から訪ねてきてくれた。

改めて感謝、感謝のお盆だった。皆にありがとう。

心から礼を述べたい2014年、夏の盆だった。

 

 

 

怪談は人生の階段?

こんばんは。夏、真っ盛りですね。

いかがお過ごしですか?

夏といえば怪談話。

そこで今夜は、私の数ある?体験談から

これはと思うお話をさせていただきますね。

今から15年ほど前の夏。

主人と北海道へ旅行したときのこと。

場所は秘密にしておきます。

(有名な観光地なのでご迷惑かけると申し訳ないので)

旅館に早く到着した私達は夕飯前に近くを散策しようと

散歩に出かけました。

時間はまだ午後の4時。多少曇ってはいましたが、

なんせ真夏。まだまだ周りは明るく

さすが北海道。お盆過ぎの風は少し肌寒いくらい。

ただ夏休みとはいえ、終盤にさしかかった平日だったため人影は見えず。

広めの一本道で見通しは良いが、車は通行止め。

片側は海に面し、低い草が風になびくのみ。

柵の先は切り立った崖。

もう片側はこれ又低いが一面笹に覆われていた。

「熊、注意」の看板に多少たじろぐも

持ってきた鈴を腰につけて二人で徒歩10分ほどの目的地に向かった。

静かだった。向こうからくる人もなく、ただ風の音が下から吹き上がってくる。

「気持ちいいね」「ほんと」ゆく先々で熊の注意は聞いていたので

私達はおしゃべりをしたり、歌を口ずさんだりして散策を楽しんでいた。

と、その時だった。いつの間にか女性が後ろから近づいてきた。と思ったら

主人の横をそれこそすれすれにすれ違ってゆく。

「こんにちは」私と主人は同時に大きな声で彼女に挨拶をした。

彼女は無言で私達を追い抜いた。

「お一人ですか?」「どなたもいらっしゃらないのでご一緒しませんか?」

「熊が出るからお気をつけてくださいね」

主人が大声で何度か声掛けをしたが、女性は振り向くことなく足早に一本道を進んでゆく。

歳は30才前後。長い黒髪。白いシャツブラウスにやはり白っぽいスカート。

足元は、ヒールこそないが白い靴を履いていた。

登山客が多いこの地域にしては、身なりからして不自然さが際立っていた。

「変な人」そう言った私に「世の中色々だから気にしないほうがいいよ」

「でも、挨拶ぐらいしたっていいのにね」「まっ。気にしない。気にしない」

主人はさほど気にもかけていなかった。

「もうすぐだね」一本道を左に曲がれば目的地は間近だった。

左に曲がる彼女の姿が小さく見えた。

「ずいぶん足の早い人ね」「ほんとだね」

私達は並んで歩き、ほぼ同時に二人で道を曲がった。

「えっ?」先に声を上げたのは主人の方だった。

「いないよ」「えーっ?」私は我が目を疑った。

「ほんと。いない。どうしたの?」

視界から彼女の姿が跡形もなく消え、その先に広がるのは

ただ海と空だけだった。

「戻るぞ」間髪入れず主人の大きな声が辺りに響き渡った。

「えっ?どうして?」「いいから。戻るぞ」

主人は有無を言わせず、私の腕を掴むと

一目散にきた道を走り始めた。

「あの人どうしちゃったんだろう?」

「いいからしゃべるな。兎に角急いで走れ」

私は言われるままに、主人と手をつないで走リ続けた。

観光センターの建物が見えてきた時、

主人が息を切らしながら初めて口を開いた。

「今の人、足あったか?」「あったよ。白い靴、履いてたもん」

「何?変な事聞いて」「あの人は、この世の人じゃない」

主人ははっきりと断言する口調で私に言った。

「えーっ。そんな馬鹿な。第一薄暗いたって、まだ4時少し回ったとこよ。

こんな時間に、出ないでしょ。それもあんなはっきりと。

あなただって見たじゃない。まさか。幽霊なんてありえないよ」

「間違いない。あの世の人だ」怖いほど厳しい主人の口調は

私を驚かせるためでも、まして茶化すでもなく

真剣そのものだった。怯えるような気弱な主人ではないことは

私もじゅうじゅう承知していたので、その言葉に正直驚いたほどだった。

私に話したことで落ち着きを取り戻したのか、

主人は、「万が一自殺で、崖から飛び降りたかもしれないから

観光センターには話しておこう」

私達は崖の上で起こった不思議な出来事を係の人に話した。

係の人は首をかしげながらこう言った。

「うーん。お客さんの後は、誰も行ってないんですよね。

おかしいな?女の人?それもお一人?」

怪訝な様子だったが「解りました。ご親切にありがとうございました」

丁寧な返事を返してくれた。

旅館に戻り、眺めの良い露天風呂に浸かった私は一日の疲れもあり、

先ほどの事件?のことは正直忘れかけていた。

部屋に戻ると主人も程なく浴衣姿で戻ってきた。

「いや気持ち良かったよ」「それは良かったわ」

主人の上機嫌な様子に私もほっとした。

しかし、主人はやはり気になっていたのだ。

「実はさっきの、女の人のことなんだけど。

風呂に入っても、やっぱり気になって、

今、ここの主人に「自殺かもしれないから、警察に知らせて」って話したらさ、

『お客さんもお会いになりましたか』って」

「えーっ」私は再び驚きを隠せなかった。

「『お客さんの仰る通り、この世の人ではないんです』って言われちゃったよ」

 

何でも旅館のご主人に話では、もっぱら有名な話で

地元の人で知らない人はいないとの事。

旅館の宿泊客からも、その目撃談は多数寄せられ、

やはり皆さん、白昼堂々とお出でに?なられるその姿に

この世の人と間違えて、私達同様

「警察に知らせた方がいい」と本気で心配されるとの事。

 

『髪の長い女の人でしょ。年の頃は30才ぐらい。そうそう細身の色白。

間違いないです。あの崖のところでフッて消えちゃうんですよね』

旅館のご主人もお会い?したそうなので、なんとも悠然とした受け答えに

「驚かないどころか、『あ~』ってな感じで、なんかこっちが拍子抜けしちゃったよ」

「通りで、観光センターの人も慌ててなかったもんね」

主人曰く「出るんなら、まだ熊のほうがよかったな」

「どっちもいやだよー」

その晩は小雨が降りだし、8月だというのに妙な寒さになった。

旅館では親切に、ストーブと厚手の毛布を手配してくれたが、

背中がやけにゾクゾクしてなかなか寝付けなかったのは言うまでもない。

 

でも今の時代、この世の人のほうがよっぽど怖いよね。

なんか熊なら鈴で逃げてくれそうだし、「幽霊は成仏して」と、

いつも優しく?念じて諭す?と、今のところ皆様?おとなしく消えてくれるもの。

でも、この世の、生身の人間は煩悩の塊だからそうはいかない。

 

今日だって、新潟の方で起きた連続女性殺人事件のニュースで賑わって?いるし。

そうそう、あの輩やたら足が速くない?

あれだけのスピード出せるなら陸上選手にでもなれたんじゃないの。

あーあ。残念ね。地獄行きは決定だから閻魔様から逃れるのは無理ね。

 

三鷹で起きた女子高生ストーカー事件の機関車みたいな?輩の判決は

あれだけ?騒いでもたった22年だなんて。

まっ、クローゼットであれだけ粘れる根性の持ち主だから

22年なんて彼にとっては、あっという間でしょうけど。

 

長崎の佐世保では、女子高校生が同級生を「マグロの解体ショーか」と

思うほどの事を一人で、軽々やってのけるし。

「我慢できなかった」って言うけど、学業優秀だったらしいから

もう少し我慢して、もう少し勉強して、

その類稀な?探究心を(彼女は残念ながら欲求に負けたけれど)

好きなことに活かして例えば、外科医にでもなれば、

いくらでも解剖の勉強ができたのに、ましてや

その先には、「人のために生きる道」がいくらでも無限に広がっていたのに

そう思うと、やっぱり残念だなと思う。

ごめんなさい。外科医の方に失礼なと、怒られそうだけど

その違いは、天と地ほどの開きがあり、

暗黒に広がるさらなる深淵の闇と、

天上に満ち溢れるほどの金精の光ほどの差になる。

どちらがいいかは、勿論聞くまでもないが。

 

どの事件も「もう少しなんとかならなかったのか?」とか

「何故?他に活かせなかったのか?」と

思うことばかり。

 

この「もう少し」や、「何故?」がこの世に生きる人々に与えられた物なのかもしれない。

そう思うと熊や幽霊さえも愛おしく?

問題解決への道も見えてくるような気がするのは

私の単なる勘違いかしら?

もちろん近道などあるはずもなく、早まってしまえば落とし穴が待っているのは

世の常だとこの年になれば、じゅうじゅう承知しているつもりだが

やっぱり私も人の子。そう思うと怪談ならぬ人生の階段踏み外さないよう気をつけないと

キャ~怖い。

それでは皆様おやすみなさい。

 

試された旅

 

 

母が亡くなって49日の法要を終えたのは3月15日だった。

「この日までは倒れてはならぬ」と自分に言い聞かせた。

すでに私の体は6年近い介護ですっかり疲れ切っていた。

それでも体に鞭打って何とか踏ん張った。

 

葬儀、お寺への挨拶、墓石の手配

役所の手続き、親戚、知人、友人への知らせ等々の

一連の流れは、事務的ではあるが

気遣いと心配りには仏事のしきたりも手伝って

相当神経をとがらせる。

正直親を亡くした寂しさなど忘れるほどだった。

ようやく一息できるのがこの49日。

 

「終わった」ホッとしたのも、束の間だった。

 

3月末の冷たい雨の降る朝、言いようのない不安が全身に襲い掛かり

居てもたってもいられない。

とにかく苦しい。胸が痛くて息をすることすらままならない。

「どうしたんだろう」

益々不安が募ってくる。

「とにかく病院へ」

 

「永い間介護ごくろうさまでした。頑張られましたね。

疲れたでしょう。しばらくゆっくり休んでください」

医師の診断は、神経すなわちストレスからくるものだった。

 

初めてお会いした内科医だったが、握りこぶしを両ひざにおいて

「ご苦労様でした」と頭を下げられたときは、大変恐縮した。

 

だが、同時に胸にこみ上げるものがあった。

母を亡くした寂しさ、切なさがじわじわ胸にあふれた。

「ありがとうございます」

先生に丁寧にお礼の言葉を申し上げた時、

胸の痛みは消えていた。

頭と心と体。私は再び三位一体の大切さを教えられた。

 

一度目は再三お話しさせていただいている、肺炎の時。

二度目母の介護を始めた当初。

三度目は東日本大震災時。

 

いずれも体に変調をきたし、頭の中の整理がつかず、

心が押しつぶされたような状態。

 

具体的には体が痛む、生理が止まる、発疹が出る

眼球や顔の神経がぴくぴくするなどなど

さまざまな症状が体に現れる。

 

新聞の内容は理解できても要点をまとめられなかったのは

母の介護を始めて半年後。

料理の手順が思い出せなかったのは肺炎で入院し、退院直後。

幸い一日でもとに戻ったが、パニックになりそうだった。

震災時においてはヘルメットをかぶったまま

一週間食事をしたらしい?のだが

未だにそのことは思い出せない。

父を亡くした時は、ぽっかり胸に穴が開いたようだった。

あの時は葬儀後の、3日間ほどの記憶がすっぽり抜け落ちている。

あんまり悲しいと人は記憶を失くすみたいだ。

 

心が押しつぶされたというかぽっかり穴が開いた状態の時は

これは私特有なものなのか?

何より手紙が書けないというのが経験上解った。

 

手紙すなわち文章が書けない。

書きたくない。心を表現したくない。

閉じ込めたい。誰にも知られたくない。

 

悲しみや切なさ、怒り嘆き。

さまざまな心模様が渦を巻いて

私に襲い掛かる。

 

私の心は私と格闘を始める。

それが又頭を混乱させ、体をいじめてゆく。

 

救ってくれるのは緩やかに過ぎる時間と

穏やかな空間と

大いなる自然と静かなる芸術だと

これも経験から学んだ。

 

何も難しいことはない。

 

好きな本や音楽に触れるだけで

それは素敵な鑑賞だと私は思う。

 

立派な絵を鑑賞できなくても

朝日や夕景や庭の花を愛でたり

足を止められたらそれはもう

生きている観照なのだと思う。

 

観照。すなわち物事の本質を見極める。

 

先日、神奈川県の大山国定公園にある

大山神社に登ってきた。

久しぶり実に7年ぶりの登山だった。

「病み上がりで大丈夫か」

不安はあったがとにかくトライだ。

だめならだめでいい。

行けるところまで行ければそれで良し。

そんな軽い気持ちで主人と二人で家を出た。

 

小雨模様のあいにくの天気でガスが深くなり

頂上一歩手前で

引き返しを余儀なくされたが

歩いてる道中はとても楽しいものだった。

 

息が上がり、汗まみれになったが

この根性なしの私が

「もうだめ」と思わなかったのが摩訶不思議。

とにかく一歩また一歩と

足が軽やかに進んでくれたことは

私にとって大きな成果だった。

 

「頑張れた」麓の温泉の湯にどっぷりつかった私は

安堵と自信をもその滔々と湛えた湯船に浸し悦に入った。

 

最初から何も期待せず山に登ったが、自分自身を取り戻し

自身を試される山登りだったと

下山後、神社の鳥居で頭を下げた時思った。

「ありがとうございました」心から言葉を発することが出来たのも

山の神様?大いなる自然の神様?の御蔭かな。

そんなことさえ思える旅だった。

 

本当にありがとうございました。

ありのままに生きる

「バサッ」音をたてて私の足元に一冊の本が転がり落ちた。

それは今から3年前の出来事。

震災で実家が傾き、これ以上ここで母を介護することが困難になったため

思い切って、引っ越しを決めたのは、震災後わずか一か月足らず。

6月末の引っ越しに向けて片づけを兼ねて

その日も私は荷物整理に追われていた。

大方の荷物を段ボールに詰め,あとはリサイクルショップ等の

引き取りを待つばかりだった。

八畳の間にデンと鎮座ましましていた箪笥もその一つだった。

「マンション住まいで持っていけないもんね」

結婚前のバブル期に大金はたいて買ったものだったが

今の私にはすでに無用の長物になってしまった。

「残念だけど、いたしかたないよね。第一地震で倒れでもしたら

それこそ本末転倒だわよ」

「でも長い間、役にたってくれてありがとう」

心の中でつぶやいた。

扉の中はすでに空っぽだったが、

「まさか?箪笥の上、何も無いよね?」

不意にそう思って、つま先立ちで手を伸ばした。

その時、足元に落ちてきたのがその本だった。

「何?この本?」

見覚えがなかった。

本のタイトルは「ありのまま」

京都法然院のご住職が書かれた本だった。

「母ちゃんが買ったのかな?」

ペラペラっとめくると

「あっ」思わず声をあげてしまった。

本の中ほどのページの写真集に見覚えがあったからだった。

静かな緑深いお寺のたたずまい。

苔むした石の小さなくぼみに浮かぶ蓮の花。

ご住職の袈裟の後ろ姿を見た時は「間違いない。この本買ったのは私だ」

そうつぶやく他なかった。

でもまてよ。いつ買ったんだろう?

まだ思い出せなかった。

初版が2006年。二刷が2007年か。

この年は、私は重篤の肺炎を患って入院した年だ。

翌年なら、母の様態が怪しくなり始め横浜の実家に通う回数が増え始めた時。

いずれにしても、穏やかな日常からはかけ離れた生活が始まった頃だ。

うーん?でもまだ思いだせない。

表題の横の小さな文字は「丁寧に暮らす、楽に生きる」と書いてある。

丁寧な暮らしなどしたことがあっただろうか?

憧れこそすれ、日々の暮らしは慌ただしく、性格は何より飽きっぽい。

瞬発力はあっても、持続力が無いことだけは当の昔に悟って?いる。

「本屋に並んだ背表紙の言葉そのものに引かれて買ったのかしら?」

 

帯カバーには「明日もなんだか大丈夫という気持ちになる。

疲れが静かに消えていく」と書かれていた。

今まさにこの言葉が沁みてゆく。

思わず片付けの忙しさも忘れそう。

時間の流れがそこだけゆっくり回っている感がした。

 

それにしても1500円も払って買った本の中身が全く思い出せないなんて。

嫌だ。私呆けたのかしら?母ちゃんは80過ぎて呆けたからまだいいけど

50歳になったばかりの私が今から呆けてどうする?

いくらなんでも早すぎんじゃない。

いや待てよ。買っただけで読んでないのかも。

うん、それなら納得がいくよな。

 

さらに本文を読み進めてみた。

其処には日々の生活の何気ない一コマに対する

意識の高さ、美意識とでも言おうか

仏の教えだから、さしずめ説教なのだが

嫌みなく、当たり前なのに、いや当たり前だからこそ

日々忘れてしまった(埋もれてしまった)

どうでもいいようなものになってしまった事柄(挨拶、掃除、食事作法など)

に対する感謝の念が綴られていた。

 

時間が無かったので、その日は最後のページに進んでしまったが、

思い通りにはならなくても自分なりにやれることをやっていけばよいのですね。

「信じるこころ」があれば今この人生があるのです。と結んであった。

 

そこでようやく私は思い出した。母が入院した2008年の暑い夏。

毎日、毎日病室に通い、体だけでなく「お母さん、もうお一人では暮らせませんよ」

しっかり者の母が痴呆を患ってしまったショックと

それを受け入れならざる得ない心の葛藤。

要介護3の認定を受けた母を自宅で看ようと決心しながらも

退院後どんな生活が待ち受けているのか?

不安ばかりが先行して、それでも容赦なく日々は過ぎてゆく。

 

真夏の暑さも手伝って、一日も欠かさず通い続けた私の体はすぐに悲鳴を上げた。

母のベットの横で点滴を受けた日もあった。

 

きっとこの本の文章ではなく、先の写真のページに心が奪われたに違いない。

そう思ったのは母が亡くなったのちこの本を再び手に取った時だった。

疲れていたのは体だけではなかった。

何よりも心が疲れていたのだ。

本を買ったことさえ忘れてしまうほどに

あの頃の私は心が果てていたのだ。

 

文章など読まず、この本のタイトルと

深淵の緑と光に揺らめく水の文様に

私はただただ癒されたかったに違いない。

 

ありのままは母のありのままを受け入れなければと

必死でもがいたあの頃の私の心そのものだった。

 

母のありのままを受け入れるには私が

ありのままでいなければいけないと

試されていると感じた時でもあった。

 

隠せない。医者や看護士さんにはもちろんのこと、

病室の人々やその家族。

見舞いの来てくれる母の友人、知人、親戚そして私の友人にも。

もうすぐ帰る実家のご近所の人々。

隠さない。皆に知ってもらおう。

母の様態はもちろん私と母の介護生活のすべてを。

 

そう思った日から心が軽くなった。

何でも包み隠さず話せるようになった。

「陽子ちゃん、お母さんの具合どう?」

「うん、自分からは話せないけど理解力はある」

「ご飯はどう?」「私が食べされるけど残さすに食べてくれるの」

「それはよかった」「そうなの。ありがたいの」

私が明るくなれば、母の様態も安定した。

リハビリも「楽しいよ」と進んでやってくれた。

 

痴呆は治らなくても、悪化するスピードは緩やかだった。

次第に私も「私自身の体の声」が聴こえるようになり

悪化する前に体を休ませることを覚えた。

 

それは母の体に対しても同様だった。

自分の心の余裕が母の介護への余裕になっていた。

(実際はアップアップだったが、皆に助けてもらわなければ

もっと悲惨であったことは間違いない)

 

母を亡くして半年。もうすぐ新盆になる。

母はいろんなことを残していってくれた。

改めて母に感謝するとともに助けて下さった全ての方に感謝だ。

 

ありのままでという歌が巷で流行っている。

いかにこの世で生きるのが息苦しいのか。

ヒットするのはその反転であろうと

私は自分の経験から推測する。

 

貴重で尊い経験をさせてもらった。

今はそれこそありのまま生かさせていただいている。

 

隣国からミサイルが飛び、大陸との関係も甚だ危うく

国内では60年ぶりの大転換で

不穏な空気が漂っているが

一人一人がありのままに生きられることを

私はただただ願うばかりだ。

 

皆様に幸あれ。ごきげんよう。

 

青い子羊  2014年ワールド杯初戦を観戦して

 

いよいよ始まった4年に一度の祭典。

サッカーワールドカップ。

アジア予選から全試合見せていただき、

この日をワクワクして待ち望んでいた者としては

昨日の初戦は期待値が高すぎたのか?

正直がっくりする試合内容だった。

とにもかくにも覇気が感じられない。

本田選手のゴールこそあれ、

他に魅せ場がなかった。魅せて欲しいのだ。

技術だけではない、ゴールだけでもない。

ピッチの上での喰らいつくような表情を

飢えと渇きに喘ぎながらも

獲物を求める獣のようなしなやかな動きを

私は求めていた。

男たちの「チャーミングな」雄姿を、、、。

「なんか檻の中の羊の群れみたい」

後半の20分はキッチンに立って、掃除を始めてしまった。

 

今年の高校サッカーの決勝戦をテレビで見たが

はっきり言って情熱は彼らのほうが勝っていた。

単に若いだけではない。ほとばしるような情熱が

汗と混ざって全身から噴き出して見えた。

 

羊の群れの中にさらに子羊が一匹混ざっていた。

その子羊にずっと前から気になっていたことがある。

入場行進の時、彼だけが子どもと手を繋がない。

 

昨日はその場面を見そびれてしまったが

以前主人に

「皆が手を繋いでいるのに、違和感があるよ」と言ったら

「えっそうなの? それまずいだろ。」

「どうでもいいっていえばどうでもいいけど」

「でも、やっぱり気になるな」

 

彼、特有な感覚からくるものなのか?

何かほかに理由があるのか?

たまたまなのか?

はたまた私が考えすぎなのか?敏感すぎるのか?

「世界のサッカーは個を大事にするのかもしれないけれど。

日本のサッカーはやっぱり「和」じゃない?」

これって偏見なのかな?

 

子供と手を繋がないのは「別に試合に関係ないじゃない」って

言ってしまえばそれまでだけど

でも、やっぱり私は気になって仕方がなかった。

「おまえ手ぐらい繋げよ」「みんな観てるぜ」

「潔癖症って変な噂流れたら、お前こまるだろう」

「第一、子供がかわいそうだよ」「しょぼんとしてたぜ」

 

チームメイトの誰一人も気づかないのかしら?

それとも気づいても言わないのかしら?

 

「そういうことって全部、試合に出ちゃうよね?」

主人曰く。

「結局、その「人と也」が、試合に結果となって出てくるんだよな」

 

主人の予言?はピタリ。

結果は皆さんがご存知の通り。

「青い子羊ちゃん。入場行進を侮ると

痛い目にあいますよ」

おばさんはあなたの勇士ある勇姿が見たいです。

心から応援しています。

頑張れニッポン。

頼む。おばさんを泣かせてくれ。

たとえ負けても悔いのない姿を皆が望んでいる。

もちろん勝って雄たけびを聞きたいし、私もあげたい?が

それだけではない歓喜の涙をおばさんに流させてくれ。

待っているよ。子羊が本物の青い駿馬のように炸裂する瞬間を。

3年目の3月11日 ~800文字のつぶやき~

原発が爆発した瞬間、私は声を失った。

繰り返す映像は、現実を通り越していた。

「これ、嘘でしょ」

大津波の映像だけでも、「悪い夢をみているのだ」

そう自分に言い聞かせていた。

2011年3月11日。

生まれて初めて遭遇した大地震。

ひっきりなしに襲ってくる余震の中で、

私は必死で祈った。

福島のいとこたち。どうか無事でいてくれ。

南相馬の友人よ。頼む。生きていてくれ。

私の頭は、パニック状態。

それだけでも十分「キャパ越え」しているのに。

それが、なんてコッタイ。

原発が爆発したぁ?

「福島が、汚された」怒りで体が震えた。

横浜で生まれ育った私にとって福島は

それまでは、祖母が眠る町、

母の生まれ育った故郷でしかなかった。

それが、あの爆発で

「私の中」で、全く違う町になった。

「福島の血が流れている」

はっきり感じ取った瞬間だった。

「なんでこうなったの?」

もって行き場のない怒り、深い悲しみ

やり場のない絶望感は、ようやく連絡のついた

いとこたちや、友人とともに

「電話で抱き合い」

号泣することでしか、慰められなかった。

いとこは、

「おばさんには知らせたかい?」

「ううん、理解できないもの」

「知らせんな。心配するから」

 

友人には「理解できなくてよかった。気が狂うと思う」と

話した。

彼女はこう答えてくれた。

「良かったと思う。私だって気が狂いそうだもの」

自分たちの生活ですら大変なのに、

皆、母を気遣ってくれた。

あの頃、母は要介護4。

車いす生活で、話を理解することができなくなっていた。

不謹慎な言い方だが、

私は母が原発事故を理解できないことを

心から「よかった」と思った。

その母が先日2月8日亡くなった。

87歳だった。

5年5か月も看られて幸せだった。

何の悔いもない。楽しかった。

今頃母はあの世で、

「あんたそうだったの」

でもやっぱり、こう言ってくれるはず。

「嘘を突き通してくれてありがとう」って。

3年目の3月11日。

再び私は祈る。

「母ちゃん、福島を見守っていて」

死んでも父ちゃんは面白い? ~小保方さんのニュースに接して~

先日10年前に亡くなった父の夢をみた。
「この世に戻ってこようと思ったら、
戻るには手続きが必要といわれたんだが、
いやー、面倒で面倒で。
俺、疲れちゃったよ」
父はソファーにぐったり座り込んだ。
そこで私が助け舟。
「そりゃそうだよ。お父さんが亡くなったあと、
あとかたずけに一年近くかかったのだもの。
役所だけで10回以上通ったんだよ」
(実際そうでした。
役所通い7回まで数えましたが、あとはあきれてやめました)
「ほう」「いいよ。私が代わりにやっといてあげる」
「そうか。じゃ、たのむゎ」
ポーンと寄こした大きな茶封筒からバラバラと
中身が落ちてきた。
手に取ると住民票やら、戸籍謄本など役所の手続き書類が
何通も。
そうなんだよなぁ。ほんとこの世なのか日本という国が
几帳面というか厳格というか
まあそれで日本は秩序が保たれているんだろうけど。
(まあ近頃は少し怪しくなってきてるけどね)
父はあの世は楽だぞと言わんばかりの顔で
安心したのかベットにごろりと横になってしまい
そこで夢が終わった。
幼いころ(今でもそうだが)飽きっぽい私が「あーんもうめんどくさい」
と喚くと、よく父が「人間、何事にも辛抱が肝心だ。
辛抱は心棒に通ず」と言っていた。
その父が、あの世ではすっかりズボラ?になっているところが
なんとも人間臭くて?可笑しい。
手続きは面倒でも、生きることには面倒を楽しんだほうがいいのかもしれない。
スタップ細胞を発見した小保方さんは「今日一日だけ、もう一日だけ」
と思って研究に励みましたと、穏やかな笑みを浮かべながら
過ぎた辛苦の日々を懐かしむように語っていました。
「ありえない」「愚弄だ」泣き明かした夜明けさえも
彼女は金色に輝く朝日のごとくに
全て受け入れ抱きしめているに違いない。
あきらめではなく、ましてや逃げでもない。
「すべて受け入れた」その先に待っていたのが
今日に繋がったのだと思う。
「ヒャッㇹー」テレビの前で大声で叫んだ
おばさんがいたことをこれからも励みに?
彼女には研究を続けていってほしい。
彼女がつけていた指輪に注文が殺到しているそうだが
私の品格、品性には到底似合わないので
(あれは彼女の指でこそ)
せめて割烹着ならぬエプロンを身に着け
日本の文化と評された和食づくりに励もうと思う。
と言ってもひじきの煮つけやきんぴらごぼうの類だが、、、。
心棒はあいかわらずヨレヨレで、
近頃は足元もヨロヨロに近づいてきた感が否めないが
人間長生きしてみるもんですね。
こんな素敵なニュースに遭遇できたことに
感謝です。小保方さんほんとありがとう。
そしておめでとうございます。
心よりお喜び申し上げます。今日も最後に昨日散歩の途中で出会ったお寺の門前の言葉をここに記して終わりにします。「心に財をつまりて給うし」